コロナ関連投稿集

コロナ関連投稿集

5月19日「緊急事態下を生きる神の民⑲長編論考 ~配信牧師に、受信信徒からの慰めと励ましを!」

〈健全な疲労感とは異質の「不健全ダメージ」〉
 昨日の投稿にはいくつかのコメントをいただきました。その中で、「舟の右側」3月号で、教会再生の働きが紹介された神戸輝明牧師からのコメントを以下に紹介します。

 インターネット礼拝用に土曜日に賛美と説教を収録して、日曜日の朝、YouTubeで配信というサイクルを3月、4月と行ってきましたが、初めてやってみたときに、それまでとは比べ物にならない疲労感があり、自分でも驚くほどでした。

 最初は慣れないことをしたせいかなくらいに考えていましたが、何度やってみてもあり得ないほど消耗し、土曜日の夜は何もできないほどの感覚でした。正直、これがずっと続いたら多分持たないなというのは感じていました。

 先週から、会堂での礼拝を再開できたのですが、もちろん説教を終えると全てを出しきった疲労感はあるものの、インターネット礼拝のときとは、全く違う感じでした。一言でいうと、何もできないような、深刻な疲れは残らないという感じです。

 自分でも、何故なのかはっきり分かっていなかったのですが、今回の投稿を拝見して、すごく腑に落ちる感じがしました。

 説教は会衆も含めて、その場の全員が一体となって神のことばに、耳を傾けることで完成するということなのだと改めて確認させられました。感謝します。(以上、転載)

  
 やはり、ご自分でも驚くような疲労感を経験されたようです。この主日から会堂での礼拝が再開して実感したのは、疲労感の違い。両者の違いは「健全な疲労感」と「不健全ダメージ」と表現できるのではないかと思います。

 完成形ではない礼拝を、完成させようとする無理が、配信側に症状として表れているのかも知れません。通常の礼拝とは異質の「配信牧師独自の不健全ダメージ」というものがあり、それが続くなら、「多分、自分は持たない」と実感されたようです。

 
〈牧師は交わりに生きるはずの一信徒〉
 私の所属教会は次の主日から、配信は継続しつつも、会堂での礼拝に移行。しかし、まだまだ、無会衆配信礼拝が続く教会も少なくないでしょう。そうなると、「配信牧師独自の不健全ダメージ」を心配せざるを得ません。どうも、配信側のダメージと受信側の欠損感は、全く異質なもののように思えます。

 そこで今回は「配信牧師は、受信信徒からの慰めと励ましを必要としている」という提言。この提言には、「受けるより、与える方が幸いだって説教してるだろーが」「牧師なんだから、そういうのは人からでなく神様にだけ求めろよ!」などの反論もあるでしょう。でも、「受けることもまた幸い」ですし、牧師も教会の交わりに生き、慰め励ましを受けることは、むしろ聖書的かと思うわけです。
 
 なぜなら、牧師は牧師である前に信徒であり、キリストのからだの一器官だから。カトリックの神父などは「聖職者」であり、「信徒」ではありません。日本の皇族の方々が日本国民でないのとに似ています。一方、プロテスタントの牧師は「聖職者」でなく「教職者」であり、「信徒」なのです。教師や医師のような専門職や議員、社長のようなリーダーが、国民であるのと同様です。
 
 本来、牧師は、信徒ととしてのアイデンティティーを持ち、教会の交わりに生きて、慰め励ましを与えるだけでなく、それらを受ける恵みに生かされるのが正解でしょう。また、神様にのみ求めるのでなく、信徒として相互に正しいニーズの満たしを求めることは、健全なあり方かと思うのです。

 
〈交わりに生きられない牧師の現実〉
 しかし、そうはいかない現実があります。信徒は、牧師に自分たちとは異次元のスーパーマンを期待しがちなもの。そこには、「牧師は、あらゆる恵みを自らが受けることなく与え続けても、神様から供給されるのでは、枯渇することはない」「牧師は与える一辺倒の自己犠牲が当然」との非聖書的前提があるかのようです。牧師はそんな「別格の超人的キリスト者」ではありませんし、パウロでさえ、そうではなかったはずです。

 また、真面目な牧師ほど、その過剰な期待に応えようとします。そして、「信徒であること」を放棄して、「牧師としての機能」に徹してしまいます。人格的な交わりの中で、癒され活かされることなく、管理・お世話・トラブル処理などの機能に忙殺され、精神衛生上マイナスに向かっていきやすいもの。

 さらには、「必要は信徒に求めず、神様にだけ求める」「信徒には苦しみを伝えず、聖なる自己処理こそ御心」などと自分で勝手に孤独を深めてしまいます。自分一人で抱え込むことに自己効力感を持ち、その姿こそ信徒から評価を得るのだと思うようになったら、末期症状。

 それは、「あんた長男でしょ」とか「お姉ちゃんなんだから」とか、親から役割を果たすことを求められ、それを真に受けて、一人で悩みながら、子どもらしさを失っている子どもに似ています。これは、子どもが「優等生にはなれても、健全ではなくなりやすいパターン」です。配信牧師の皆様には、「優秀」であるよりも、「健全」でいていただきたいのです。

 でも、こうした「牧師あるある」の「不健全体質」や「牧師病的症状」は、一般的で、自覚されない場合も。「自覚がないからヤバイ」のです。また、自覚できても克服は簡単ではありません。ですから、大切な牧師が、自覚症状を持ち、体質改善な治療を進めるためにも、周囲の皆様や信徒の皆様の助け、慰めと励ましを必要としているのです。

 
〈配信牧師に今、必要なのは?〉
 礼拝配信を続けるという行為は、まさに、「供給し続ける自らが枯渇に向かうこと」「役割を果たしながら、不健全ダメージを蓄積していく行為」に相当するでしょう。

 ただでさえ、未経験の状況に、顔を合わせることのない孤独の中で対処していくストレスがあります。そこに、さらなる負担や不健全ダメージが追加されるのですから、牧師は、信徒からの慰め励ましなしでは、やっていけないでしょう。

  
 今こそ「配信牧師」は「受信信徒」からの慰め、励ましを必要としているです!

  
 見聞きする事例は、実に多様。それは、「ここまで違うか!?」と思うほど。いつも以上に受信信徒から説教の応答や励まし受けて、想定外の疲弊さえ癒される思いをしている「恵まれた配信牧師」もいれば、それらよりも、はるか多くの「クレーム」「批判」「攻撃」を受けて倒れそうな「やせ衰えている配信牧師」も。

「できすぎた受信信徒」から、この時期にこそと休暇をいただいている「幸せすぎる配信牧師」もいれば、、本来励まし合えるはずの同労者からさえ「理不尽なご批判」をいただく「不幸すぎる配信牧師」も。

 これほどまでの違いは、普段からの実践、これまでの団体や教会の歩みからの必然的結果という面も否めないでしょう。しかし、固定的に考えて諦めてはなりません。遅すぎる悔い改めなどありません!今からでも、考えや姿勢を改めれば、良い方に向かうことは可能なのです。
 

〈最後にお願い〉
 というわけで、僭越ながら、「配信牧師」の皆様へ。まずは、ご自分が牧師である前に、信徒であるという健全なアイデンティティーをもっていただければとと願います。その上で、可能な状況であれば、信徒とのフラットな交わりに生き、必要とする慰めや励ましを求めましょう。求めていいのです。いいえ、求めるべきなのです。求めなければ、「神の恵みの持ち腐れ」でしょう。

 昨日紹介しました仁科早苗先生のFB上での信徒への呼びかけなどは、その「実践例」だと思うのです。もちろん、信徒との信頼関係や信徒の一定の成熟度があってのことでしょう。

 それができない状況と思えてしまう「配信牧師」に皆様は、せめて、本音や愚痴を伝えられる役員や親しい信徒に求めてみてはどうでしょう?意外と「もっと早く、気軽にいってくれればいいのに」と言われたりするものです。それさえ無理なら、親しい同労者同士で、慰め合い励まし合いましょう。
  
 「受信信徒」の皆様にも僭越ながらお願いがございます。今、配信前後のチャットでの暖かなコメント、配信後に届く礼拝や説教の感想、感謝などは、皆さんの予想をはるかに超えて、配信牧師の心に深い慰めと力強い励ましを与えています。

 愛のこもったお手紙(返信不要で)やおいしい贈り物などもいいでしょう。そうした愛に満ちた慰めと励ましは牧師がストレス性の疾患で倒れること、不健全ダメージの蓄積による精神疾患で機能停止することの予防につなります。

 「牧師が叫び声を上げた時には、もう手遅れ」で休暇や退任というパターンは少なくありません。ですから、牧師が危険信号を出していない段階からの慰めと励ましをと願うのです。

 牧師個人ためだけではありません。教会のため、ご自身のため、最終的には神さまのために、今回の投稿を受け止めて、ぜひ、ご一考を。