コロナ関連投稿集

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「オンライン礼拝あれこれ⑤~本質としての身体性」

 ネット配信での礼拝を二度経験して、つくづく「本質としての身体性」を再認識、そして痛感。しばしば指摘されることですが、聖書における本質の一つは、意外にも「身体性」。 

人は地の塵から造られた「身体」を持つ存在。

神は受肉をして、「身体」を持つ人間に。

復活後も「身体」を持ち、壁を抜けたり、魚を食べたり。

神が求められるのは、自らの「身体」をささげる礼拝。

聖霊の宮であり、神の栄光をあらわすための「身体」

栄光の富相続に際しては、朽ちることなき「身体」

 これほどまで、身体は本質的な要素なのですが、ネット配信礼拝は、どうしても、身体性を欠いてしまうのが現実。実際に礼拝をささげてみて実感したのは、身体性が欠如するからこそ、礼拝者自身が身体性を大切にすべきだということ。教会への移動以外は、通常の礼拝と同じように身体を用いることが、真実な礼拝につながると思った次第です。

 たとえば、通常、礼拝をささげる服装への着替え、メイク、髭剃りなどの身支度、モニターの前できちんと座ること、礼拝開始前に祈ること、賛美は声を出して歌うこと、献金は封筒などを用意して礼拝時にささげること、祝祷は頭を垂れて受けることなどなど。

 これら、「身体的な作業」が、礼拝者の心を礼拝に向けいくように思います。(これは、律法的でなく多様性を許す具体的提案として受け止めてください)。普段、礼拝でしている身体の動きが、実は、真実な礼拝をささげる思いを体現していたことに気が付くかもしれません。それも、この時期の恵み「礼拝の再発見」でしょう。

  
 また、「身体性」ということは、時間と空間の束縛を受けるということを意味します。対面礼拝では、礼拝者である兄弟姉妹と時間と空間を共有します。それが、礼拝者に礼拝の民として共同体意識を与えますし、時空の共有自体が、神の民として一つとなり礼拝することの具体化でしょう。しかし、ライブ配信でも、礼拝者は空間は共有できず、録画ですと時間と空間の両方が共有できません。

 それをある程度は、現代技術で補うことも可能。ZOOMを使えば、他の礼拝者の身体が認識可能。Youtubeなどでも、ログインしてチャット機能を使えば、身体は認識できなくても、存在は認識可能に。通常の礼拝とは、別次元でしょうが、現状でカバーできる部分も決して、少なくはないでしょう。

 といういわけで、この時期、一度、「聖書における身体性の本質」とそれに伴う「礼拝における時間と空間の共有」を考えてみはどうでしょう?そうすると、「ネット配信礼拝での真実な礼拝のあり方」と「欠如要素と一定の克服」などが見えてくるかもしれません。長々と記しましたが、この時期の礼拝を考える際の参考になれば、感謝。