コロナ関連投稿集

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4月28日「オンライン礼拝あれこれ⑥~最大のジレンマとしての聖餐式、すればツッコミ、しなけりゃダメ出し」

 昨日の投稿には、クリスチャン新聞に「非日常を日常としないために」を寄稿された篠原健治先生からのコメントが。「礼典の危機を危機と感じないことこそ危機」との趣旨には、共感しながらも、自らを省みて反省。

 無会衆、全面配信礼拝でも、礼拝は不完全形ながら、成立していると言えるでしょうが、最大の課題は、聖餐式。今や、このことを論ずることはタブーなのかもしれません。

 あくまで私見ですが、私は、礼拝の中心は「みことば」と「聖餐」だと考えています。「聖礼典の執行は、キリスト教会の生命線」という強い見解の持ち主でもあります。

 教会が聖餐式を執行できない状態は、「違憲状態での国政選挙」同様にまずいと考えています。実情が根本理念から乖離逸脱しているからです。とはいえ、礼典危機を重大危機と考えても、執行できない、あるいはすべきでない状況。

 ですから、聖餐式中止は、まさに、「苦渋の決断」。今や、諸教会は、「だって、仕方ないじゃあないか~」という「えなりかずき状態」と言えるでしょう。(おい!重大なテーマに軽薄な比喩だなー)
  
 これまた私見ですが、その反面、「みことば」と「聖餐」は、本質において共通項を持ち、相互補完的関係にあり、部分的には代替可能だとも考えています。言い換えれば、「みことば」は「語られる聖餐」であり「聖餐」は「食され、飲まれるみことば」と位置付けています。ですから、毎週、聖餐式を行わなくても、それは、聖餐軽視ではないと判断しています。
 
 しかし、あくまで補完関係であり、代替可能とは言え、部分的です。プロテスタントの場合は、2,3ヶ月程度は「みことば礼拝オンリー」も許容範囲かもしれませんが、何か月も「聖餐の恵み無き礼拝」が続くのは、教会のいのちを危険にさらすことを意味するのかも。

 感染リスクが低いなら、司式者が信徒宅を訪ねて執行する「訪問聖餐(デリバリーコミュニオン)」もありでしょう。しかし、緊急事態宣言下にある大半の教会はそれも、無理。
  
 
 まあ、こんなことを考えて書いていられるのも、私が、責任のない名目だけの協力牧師だから。私などは、お気楽なもんです。諸教会の責任ある立場の牧師やリーダーたちは、執行と中止を、責任をもって決断せねばなりません。

 一つの実践例を挙げてみます。私の所属教会の主任牧師は、熟考し、ある意味「実験的な試み」をされました。4月の第1主日は、いわば「エアー・コミュニオン」。その時点では会堂に集まった状態で、パンとブドウ液はなく、みことばと祈りのみの聖餐式。臨在の中、主の血と肉を覚え、恵みを味わい、互いが一つであることを感謝しました。

 そして、まもなく迎える5月の第1主日です。次の主日は、無会衆・全面配信礼拝で初の聖餐式となります。この主日の午後には、牧師から、聖餐式の案内が。

 その内容は「遠隔聖餐(テレコミュニオン)」。メール記載の指示内容は、各家庭でパンとブドウ液を準備し、家庭の代表者が配餐するというもの。信徒は「配餐すれども司式せず」ということでしょう。司式者は、パンとぶとう液の聖別の祈りをカメラに向かって、モニター前の準備したものに対してすると予想されます。
 
 神学的な疑問点は織り込み済みで熟考された末の決断と実行と思われます。また、師が東海神学塾で師事した礼拝学の先生は、私が尊敬してやまない方でもあります。4月に続いての「聖餐における実験的試み」を教会全体でチャンレジしていく途中です。
 
 各教会の聖餐論や昨日の身体論を考えれば、こうした試みを躊躇せざるを得ない教職者が多数派でしょう。「神学的に疑問の余地があることは実行しない」という判断は尊重されるべきです。

 しかし、一方で、「だからとって、教会が何か月も聖餐式をしないのは教会のいのちを失わせる選択では?」との神学的反論もあるでしょう。つまり「神学的には正しいかもしれないけど、その判断は、教会を緩慢な死に向かわせるのでは?」というキツ過ぎる問いかけです。
  
 そこで、今回のタイトルです。 
「最大のジレンマとしての聖餐式、すればツッコミ、しなけりゃダメ出し」
 
 神学的疑問を残す聖餐式を執行すれば、「それ、神学的にどうよ?」「聖書的にありなの?」とツッコまれます。だからと言って、長期間、聖餐なき礼拝を継続するなら、「教会のいのちに関わること」「手を打たないのは怠惰」とのダメ出しがあるのかも。そうなれば、「だって仕方ないだろー」の「えなりかずき状態」になるしかありません。「進むも地獄、退くも地獄」と言いますが、現状での聖餐式は「すればツッコミ、しなけりゃダメ出し」なのです。まさに、「最大のジレンマ」と言えるでしょう。 

 
 そこで、信徒の皆様にお願いです。決断と実行をし、その責任を負うリーダーたちの置かれているこの厳しい状況を、愛をもって理解していただきたいのです。そして、評論家的立場からのツッコミやダメ出しはご遠慮いただき、主のからだの一器官として、このジレンマを共に悩み、責任者のためにお祈りいただければと願います。
 
「配信礼拝において、聖餐式はどうするのか?」
それは、正解のない問い。
すれば、ツッコミ、しなけりゃダメ出し
どちらを選択しても「苦渋の決断」

私は思います。
聖礼典の危機を「危機」として受け止めながら、
どうしようもなジレンマの中、
共に悩み、祈り、熟考すること。

それが、この「正解なき問い」に対する「正解ならざる正解」だと。