コロナ関連投稿集

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3月27日「礼拝は不要不急じゃないけど、外出とも限らないよね」

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 政治、スポーツ、芸能界と、実感できる形で、感染の危機感が伝えらえています。不要な恐れは持つべきではないでしょうが、事実に即した正しい危機意識は持つべきでしょう。特に東京都とそれに隣接する4県の危機感は高く、連携しての要請を発表。都からの外出自粛要請を受けて、都内や近県では、19日から「無会衆、全面配信礼拝」に切り替える教会も少なくないようです。

「外出自粛要請」のポイントは、「不要不急であること」「外出を自主的に控えること」「要請であること」の三点。
 
① 主日礼拝は「不要不急」かと言えば、「必要不可欠」でしょう。神様が最も願っておられるのは、神の民との愛の交わりである礼拝。クリスチャンの中心的アイデンティティーは「礼拝者」。それは、神の御子のいのちと引き換えに結ばれた「愛の絆」。どう考えても、礼拝を「不要不急」とは思えません。

② 主日礼拝は「外出」かと言えば、外出とは限りません。「外出しない礼拝」という選択肢を提供するために礼拝の配信をするわけです。「散らされた神の民の礼拝」はベストではないでしょうが、危機的状況下にあっては、正しい選択かと思っています。

③ 「要請」であって「命令」ではありません。あくまで自主的に控えることを求められているわけです。ですから、「必要不可欠」と考えての礼拝のための外出が、即、命令違反であり、神の立てた権威への反逆になるわけではありません。

 
 私見ですが、まずは、上の三点を取り違えないことが大前提かと。「外出自粛要請」の意図と内容を正しく理解しましょう。その上で、教会として、礼拝のための外出について判断すればいいのでは?逆に言えば、現時点で、自由が制限されているわけではなく、教会は、主体的選択が十分可能です。

 自由の行使については、パウロ書簡を代表に、聖書は、私たちに指針を与えています。自由の行使について聖書は、「動機が愛」であること、「結果が神の栄光」をあらわすこと、行使者は神に「結果責任」を問われること、「弱者への配慮」の必要性などを指針として示しています。

 こうした危機的状況こそ「聖書信仰」が問われます。行政からの要請や伝道効率、世間体を最優先するのでなく、まず、聖書から指針(普遍的みこころ)を確認することです。それを状況に応じて、柔軟に適用して、具体的判断を導き出すのです。

 指針は同一でも状況の変化によって判断は変わります。それは「ぶれている」のでなく、「一貫性ある柔軟な判断」なのです。ですから、状況悪化により、通常の礼拝を取りやめること自体は、何ら「不信仰」ではないし、「聖書信仰」に反することでもありません。
 
 こうした危機的状況の中でこそ、いよいよ聖書に根差すこと、判断結果より、聖書から判断までに至るプロセスを大切にして欲しいと願っています。「状況への対処」でなく「聖書からの対処」であったらと願うのです。いいえ、むしろ、この試練の中で、諸教会のとりわけ役員の皆さんが、「聖書を基準に現実的な判断をする実際的訓練」を経験していただけるのではと期待しています。

 そして、教会には神様から主体的判断をする「自由」が委ねられていること、同時に、神の前にも、近隣社会に対しても、「厳守な責任」を委ねられていることを、実感をもって確認する機会になればと考えています。
 
「礼拝は不要不急じゃないけど、外出とも限らないよね」

 今回も拙い論考ですが、何かのお役に立てれば、感謝です。
いつの日にか、通常の教会生活が回復した時、お互いが聖書に立つ信仰者として、成熟した姿を喜びあえることを願いつつ。