コロナ関連投稿集

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7月16日「教会も事業持続化給付金?Go Toキャンペーン?」

 先日某教会で礼拝奉仕の際、礼拝後にアピールされたのが、コロナ禍による経済的危機にある教団内の諸教会を支援するための特別献金。アピールに立った方の説明によれば、配信礼拝時には、教会員が教会に来ないくなり、献金額が大幅に減額。さらに、対面での礼拝を再開しても、戻ってこない信徒もおり、経済的な回復が見えてこないのだとか。その結果、経済的理由から存続危機にある教会があるとのこと。
  
 これは謂わば、教会版の「事業持続化給付金」。その趣旨には、何の異論もありません。また、配信礼拝時に献金をささげない信徒、礼拝を再開後も離れたままの信徒がいるのも、ある意味、残念な現実として受け止めるべきでしょう。
 
 ただ、一つ問いかけが起こったのです。それは、「自分も含めて、教職側は、こうならないような教育や語り掛けをしてきただろうか?」という問い。普段から、「礼拝とは何か?」「何のために礼拝をするのか?」という礼拝の本質と目的が語られ、教えられているなら、きっと状況は違っていただろうにと思ったのです。
 
 本来の解決は、支援金のような「対処療法」ではなく、礼拝教育という「根幹治療」にあるのでしょう。つまり、本来に対処すべきは「結果である現象」ではなく、「原因である礼拝観の欠如」だということです。
 
 「〇〇とは何か?」という本質や「何のために〇〇するのか?」という目的が、教えられることのないまま「〇〇は大切です」「〇〇しましょう」だけが、教会内では、アピールされやすいもの。聖書に記されているにもかかわらず、本質と目的が語られず、行動や規範だけがマニュアルのように提示されがちです。〇〇の代表は「礼拝」であり、「献金」や「結婚」もそれに準ずるでしょう。
 
 対面礼拝を再開しても、礼拝に戻ってこない信徒が多く、献金の減額というなら、今度は、教会版の「Go Toキャンペーン」をしたらいいでしょう。教会に行きましょうという「Go To Churchキャンペーン」です。でも、これなら、今までも日常的されてきましたね。
 
 このキャンペーンも、要は「教会とは何か?」という本質、「何のための教会か?」という目的など、普段から教会観が伝えられ、教育され、信徒に定着していなければ、あまり効果は期待できないでしょう。 「〇〇とは何か?」と「何のために〇〇するのか?」なしの「〇〇しましょう」では、内側からの主体的行動でなく、義務感からの消極的行動になるのは必然。
 
 
 この教団だけでないでしょう。配信時に献金を怠る信徒や対面礼拝再開後も戻ってこない信徒の存在は、私たちにあるメッセージを投げかけているのではないでしょうか?コロナによって、こうした経済的試練が起こった場合、その原因と責任を未熟な信徒ばかりに押し付けてはならないと思うのです。むしろ、コロナ禍における経済的困窮の本質的原因は、その教会の未熟さ、とりわけ聖書から、「礼拝観」と「教会観」を信徒に教育してこなかったことにあるように思えてなりません。その意味で、自戒も込めて、教職側としての責任も自問されるべきだろうと思った次第。
 
「この機会に本気で礼拝を考えよう」
 
「配信礼拝の是非以前に礼拝の本質でしょう」
 
「コロナ禍を真実な礼拝がささげられるための転機に」
 
 そんな言葉を見聞きしてきました。それらの言葉は本気で発せられたものでしょう。しかし、問いたいのです。それは、今、実行されているでしょうか?コロナを機に、信徒の方々は本気で礼拝を考え始めているでしょうか?教職はそれを伝え、教育し始めているでしょうか?実行されているなら、それは、将来何らかの形で実を結ぶことでしょう。
 
 それとも「〇〇とは何か?」との本質、「何のために〇〇するのか?」との目的が、教えられることなく「〇〇は大切、〇〇しましょう」だけが、今も、アピールされているでしょうか。もし、そうなら、今後も、その教会は、別のきっかけにより、同様の経済的危機を迎えることでしょう。
 
 今回は、「教会も事業持続化給付金?Go Toキャンペーン?」とタイトルをつけました。こうした対処療法を否定する意図はありません。しかし、その実行によって、さらに為すべき本質的な対処を見失ってはならないと思うのです。
  
 神様の願いは、教会が、コロナ禍という試練にうまく対処して、以前の教会のありように戻ることではないでしょう。神様の願いはこの試練を実り豊かなものとすること、この試練を通じて教会が成熟することに違いありません。
 
 コロナ禍の中で、本質を学び、大切なことに気づき、それを実行に移すお互いでありたいと願います。