コロナ関連投稿集

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4月22日「緊急事態下を生きる神の民⑬~弱者犠牲の上に立つ強者の安全と快適」

「沖縄独自の緊急事態宣言」、「沖縄で初のクラスター」。そんなニュースを聞くと心に浮かぶのはこの言葉。

「弱者犠牲の上に立つ強者の安全と快適」

都市部への電力供給のために産業を持たない地域が原発を誘致。
女性に予期せぬを妊娠させた男性は、時に女性を犠牲にして責任逃れ。
豊かな国の食生活の背後にあるのは、貧困国の児童労働や搾取。
いずれも、弱者の犠牲の上に強者の安全で快適な生活が成り立っています。

 さらには、強者たちが、この残酷な事実から目を逸らして、心を痛めず生活できるよう社会が形成されているかのようです。この構造的罪は、歴史を経て作られ、定着したがために、ぬぐいがたいもの。

 まさに、沖縄は、日本において、そうした犠牲を強いられてきた代表。本土の安全と快適さのために、沖縄は犠牲を強いられてきました。基地と観光に依存せざるを得ない現状は、外側からの何らかの力によって形成されてきたように私は思います。
 
 その上での今回の緊急宣言と初のクラスター。ウイルスを持ち込んだ大半は、都市生活者、とりわけ首都圏に暮らす人々だと目されます。感染の恐れと不自由な生活を逃れるため、お金や時間に余裕のある「強者」が、沖縄や離島に「避難」や「疎開」をしたと報道されています。

「沖縄という弱者犠牲の上に立つ都市生活者という強者の安全と快適」

 
 ただでさえ、犠牲を強いられ続けている沖縄に対して、あまりの仕打ちです。都市部の富裕層の傲慢さすら感じます。とりわけ、離島で感染拡大となれば、船での移動が不可能となり、島民全体の生命にかかわります。

 石田純一さんは非難を浴びています。その軽率で無責任な行動は非難に値するでしょうが、石田さんの場合は、避難でも、疎開でもありません。そう考えると、最も非難されるべきは、避難民、疎開者である一般市民。

 「弱者の犠牲の上に立つ強者の安全で快適な生活」という悪は、多くの場合構造的であるがゆえに簡単に克服することも避けることもできません。しかし、コロナ感染の場合は、個人の判断と実行によって避けることはできるのです。沖縄を犠牲にすることは簡単に避けられることです。その意味でも、非難に値する行動と言えるでしょう。

  
 とりわけ旧約聖書の中では、構造的な悪の犠牲者となる弱者を省みる神、そのことを御心として民に伝え実現を求める神が描かれています。そのことを思うと、悲しみと怒りを覚えずにはおられません。

 「弱者犠牲の上に立つ強者の安全と快適」は、克服しがたい私たちの罪でしょう。しかし、それがコロナ感染の中で、沖縄の地で、都市生活者個人のレベルで起こっていることは、あまりに辛い思いがします。そして、神様が悲しまれることとして沖縄の緊急事態宣言と初のクラスターを受け止めています。