コロナ関連投稿集

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4月6日「長編論考~受難週の中、緊急事態宣言を目前に」

 明日にも、緊急事態宣言が出される見込み。こうした時こそ、キリスト者市民としての自覚をもって、宣言内容をよく理解し、愛を動機として、神と人の前に責任ある行動をと願います。同時に、「緊急事態宣言」という文言の印象やインパクトだけで、非理性的かつ衝動的な行動をとりやすいのも私たちの現実。特に大衆社会である日本においては、群集心理に陥ることなく、各個人の主体的判断が求められます。

 そして、今、まさに、受難週。2000年前、人類は、非理性的かつ衝動的な判断によって、神を殺しました。いいえ、人類ではなくこともあろうに「神の民」が「自分たちを選び愛した神」を死に追いやったのです。

 そうです。2000年前に神を殺し、70年前にファシズムを生み出した「非理性主義と群集心理」は、今日も日本社会を混乱に陥れかねません。現代のクリスチャンが、歴史に学び、もはや非理性主義と群集心理に陥ることはないと思ったら、大間違い。

 森本あんり先生の著書(反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体)が示すように、アメリカのキリスト教は時に、非理性主義との親和性は高く、日本のカルト問題が示すように、群集心理が教会を不健全化しかねないのが現実。
   
 そのことを念頭において、長くなりますが、受難週の定番説教の一部を掲載します。緊急事態宣言を受け、ともすれば「事実と聖書」をわきにおいて、「自らの安心獲得」という欲望を優先しかねないお互いです。デマやマスコミの偏向報道によって、主体的判断を失いかねない現代人です。

 だからこそ、「受難週の中、緊急事態を目前に」した今、2000年前の神の民であった「群衆」と今日、日本社会に生きる「神の民である自ら」を重ね合わせたいのです。そこから、何かが見えてくればと願います。聖書を通して、今の私たちに神様が語り掛けようとしている声を、聴くことができればと願うのです。

 
「キリストを死に追いやった罪」(マタイ27:17-26) 

 「キリストを死に追いやった罪」。その三つ目は群集の付和雷同です。イエス様は、群集の付和雷同によって十字架に付けられていったのです。これまで、見てきたように、イエス様をメシアとして迎えたはずの群集は、祭司長・長老たちに扇動され、イエス様を十字架にかけざるを得ないようにピラトに圧力をかけました。

 こうした群集の愚かで危険な付和雷同はなぜ起こったのでしょうか?どうも、信仰者でもあった当時の群集たちには二つのものが欠けていたようです。群衆たちの付和雷同の原因となった民衆たちの二つの欠如を共に見てゆきましょう。
 
  
 一つ目の欠如は、「一貫性の欠如」です。数日前には、しゅろの葉を振って、イエス様をお迎えした群集が、手の平を返したように、イエス様を十字架に付けろと叫び続けたのです。一貫性が全くありません。これはどういうことでしょう。 
 
 しゅろの葉を振って迎えたのはどういう意味でしょう。この時より200年程前のこと。当時は、シリアがユダヤを支配し、ユダヤの人々はシリアの圧制に苦しんでいました。しかし、マカベヤという人物がリーダーとなり、そのシリアに打ち勝ち、ユダヤ独立に成功。その時、人々は勝利の印としてしゅろの葉を振って彼を迎えました。

 ですから、しゅろの枝を手にして迎えたということは、イエス様にローマに対しての軍事革命、独立戦争を期待していたことを意味します。民衆は愛と平和によって霊的、精神的な神の国を作るメシアでなく、すぐにでもローマに謀反を起こし、自分たちを独立させてくれるメシアを願っていたのです。神が願う救い主より、自分の願望を実現する救い主を願ったのです。  

 しかし、イエス様は武装するともなく、何も始めません。群集たちに失望が広がります。きっと、祭司長と長老たちは、これなら、イエスを捕らえて裁判にかけても、群集からの反発はないだろうと判断したのでしょう。
 
 皮肉なことです。政治的な意図がないから、イエス様に失望したはずの群集が、イエス様を政治犯として処刑するように要求したのです。謀反を起こしてくれないから、見捨てたはずなのに、自らを王とし謀反を起こそうとしたとの理由で十字架につけたのです。最後には無実でもかまわない、責任は自分が負うからとまで言います。何という一貫性のなさでしょう。  

 どうしてここまで一貫性がなくなって平気なのでしょう、それは事実や真理に基づいて判断をしないからです。変ることなき事実、真理によって判断・選択すれば一貫性があるものです。
 しかし、その時々の自分の欲望、気分、利害関係を基準にするなら、一貫性は失われます。まさに群集はイエス様が無実であるという事実、メシアであるとの聖書の真理より、自分の欲望、気分、利害、感情を優先し、ありえないほど一貫性の欠如を露呈したのです。

  
 二つ目の欠如は、主体性の欠如です。20節によれば、群集は、祭司長、長老達に説きつけられ、つまり扇動をされて、イエスの十字架刑を求めるようになりました。 

 自分で聖書を読み、イエス様の言動を検討し、主体的な判断ができれば、群衆は、扇動に乗らなかったでしょう。残念なことに群集は、権威者の聖書理解や言い伝えを鵜呑みにし、人々と同じことをよしとして、主体的に聖書を読み、自分の頭で考えてはいなかったようです。これは、扇動されやすい典型的なタイプです。

 これは現代的に言えば、群集心理です。群集の持つ最大の危険性、それは主体的に自分で考えようとしないことです。その時の気分で動き、人と同じことをすることで安心する。そのために権威やメディアに扇動されやすいそれが群衆の危険性です。

 初めて大衆を学問の対象としたオルテガという哲学者は、大衆社会の危険を訴えました。やがて、ドイツではナチスが、イタリアではファシズムが台頭し、その学説の正しさが証明されました。現在でも、同様の危険性が、政治だけでなく、一般の宗教やキリスト教会のカルト化現象に現れていると指摘されます。

 「その時の気分で動き、人と同じことをすることで安心する。」それが、群衆心理だそうですが、お互いはどうでしょう?主体的に聖書を読み、聖書はどういっているか?を最優先し、自分の頭脳で考えているでしょうか?それとも指導者の言葉を鵜呑みにし、聖書よりも、教会内の言い伝えをなぞるような信仰生活に終始しているでしょうか?  

 群集は言いました。「その人の血は、私たちや私たちの子どもらの上に」と。「キリストを死に追いやった罪」その三つ目は群集の付和雷同です。一貫性の欠如、主体性と欠如の故に群集は、付和雷同の罪に陥りました。そして、その付和雷同がイエス様を十字架につけました。 

 聖書が記す救い主ではなく、自己願望を実現しする偶像を期待した群集

 事実や聖書の真理より自分の気分・利害を優先し一貫性を失った群衆

 権威や言い伝えを鵜呑みにし主体的判断を失った群衆

 それ故に付和雷同となりイエス様を十字架につけた群集

  
 それは、他人事でしょうか?2000年前の群衆たちと今の自分を重ね合わせながら、あの群衆の一人として、この朝、十字架上のキリストを仰ぎ見ましょう。