コロナ関連投稿集

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5月18日「緊急事態下を生きる神の民⑱ ~無会衆礼拝での奉仕が、こんなにもキツイのはなぜか?」

 昨日、FBにざっと目を通すと、礼拝配信後に寝込んだ牧師、がむしゃらに頑張り続けた結果や突発性難聴となってしまった牧師などが・・・。

 体は心より正直です。ある種の身体的不調は精神的危機を告げる警告信号です。牧師たちの声からすると、どうも、ダメージを受けている一つが無会衆礼拝や会堂内無会衆説教のようです。

 「無会衆礼拝での奉仕が、こんなにもキツイのはなぜか?」そこには、礼拝の本質にかかわるような根本的な原因があると予想。そこで、礼拝論や教会論的に考えてみました。四つほど思いついたことを記してみます。

 
① 一礼拝者としてのダメージ
 司式者、説教者も、「一礼拝者」です。しかし、配信礼拝では、礼拝共同体であるはずが、個人や少人数奉仕者グループになります。そうなると、受信者側とは異なり、会堂内では礼拝共同体が成立していないという感覚があるのかもしれません。

 配信礼拝においては、受信側は一定共同体意識が持てるのがですが、送信側は著しい喪失を経験しているのではないかと思えるのです。この対象喪失や疎外感は結構なダメージでしょう。

② 礼拝者相互の交わりの欠損
 ①と関連するのですが、礼拝は神様との交わりであるだけでなく、礼拝の民相互の交わりでもあります。実際に礼拝中には挨拶や会話がなくても、実は、自分以外の礼拝者の存在を意識して、一つになり礼拝をささげています。そこで、無自覚ながら、深い欠損感が生じるのでは?

 それは礼拝の前後でも同様で、受信側は何となく「みんなつながっている感」があるのでしょうがが、送信側は、「つながっているのかな?感」くらいで、むしろ「送っている感」ばかりがあるのでは?この孤立感もきついです。

③ 説教者としてのダメージ
 よく言われるように説教は、説教者と会衆の対話。会衆が何一つ声を発しなくても、非言語的応答を説教者は受け止め、それを意識して語ります。たとえ、完全原稿通りに語ったとしても、そうでしょう。

 説教者はPCやカメラの向こう側の会衆を意識して語りますが、その非言語的応答は実感できません。つまり、「会話が独り言化」してしまい、そこに空虚さや孤独を感じてしまうのでしょう。

④ 聖餐式の欠損
 礼拝の中心は「みことばと聖餐」だと私は考えます。聖餐の恵みにあずかれないことの痛みや欠損感は、あまり自覚されません。

 しかし、非言語的な恵みである聖餐に数か月にわたり、あずかれないことは、実は、聖餐の司式者であり恵みを受ける側でもある牧師自身の深いところに、言語化されざるダメージを与えている可能性も。昨今、指摘されている「聖礼典の危機」は教会の危機だけでなく、牧師個人の危機でなのかも。
 

 などと論理的に考えているだけでは、不十分。なぜなら「事件は会議室ではなく現場で起こっている」から。礼拝配信現場での実体験と現場の声は不可欠。そこで、現場の声を聞いてみましょう。

 敬愛します仁科早苗先生が昨日の投稿をシェアしてくださいました。その際の投稿本文が素晴らしいです!豊かな感性でとらえた「本質についての気づき」を見事に言語化してくださいました。

 言語化された文章に触れるだけで、疲労感やダメージや孤独の正体を突き止め、それらを軽減できる方もいらっしゃるのでは?また、配信を受ける側にとっても、無会衆で奉仕する牧師独自のダメージを想像する助けになれば感謝。

 受信者の皆様には、私からも配信側への励ましのメール、感謝の声など、ご協力や、愛の配慮をと願います。では、以下に仁科早苗先生の投稿を転載します。

 

最近気がつきました。
無会衆の説教をすると、ひどく疲れる理由に。
会衆へ顔を合わせて、説教している時は、みことばが受肉していく瞬間に立ち会っていて、そのエネルギーが、自分を支えているんだと。会衆の皆さんと説教者は、共に礼拝者として、礼拝は作り上げられていき、そこで力を受けて、説教者もまた、遣わされて行っていると。

もちろん、テレビ、ラジオメッセンジャーさんは、会衆が無くて当然なのですが、配信のプロやスタッフに支えて頂いているという意味で、孤独感が少ない。

なんてことを感じてます。

これからの礼拝がどうなっていくのか、まだまだわかりませんが、牧師の孤独、孤立がさらに追い詰めるなあと心配してます。

「先生、教会の説教、うまく届いてた」など、電話やラインを一言もらうと、気分がすごく楽になることも発見しました。
配信を受け取られる皆さんにはご協力や、愛の配慮を願います。
水谷先生の提言、とても大事なことと感じます。シェアさせて下さい。