コロナ関連投稿集

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5月27日「緊急事態下を生きる神の民㉒ ~カナンに進みゆく教会とエジプトに戻りたがる教会」

「緊急事態下を生きる神の民㉒
~カナンに進みゆく教会とエジプトに戻りたがる教会」

 
 一時期は企業として大躍進を果たしたシャープが凋落をした理由は、「過去の成功体験の再現への固執」にあると言われます。大躍進時をもたらした成功体験の再現を目指そうとするあまり、時代を読み間違え、市場の動向を見定めることができなかったわけです。そして、過去の成功体験の再現を目指した結果は、悲惨なものでした。

 このことは、キリスト教会も同様でしょう。「終戦直後は教会に人が押し寄せてきた」「昔は、若者がいっぱいいた」「教会学校は子どもであふれて困るほどだった」「野球場を貸し切って大伝道集会をしていた」などなど。過去の成功体験を懐かしみ、神様の恵みを感謝しているのなら、いいのです。

 そうではなく「なぜ、今はそうでないのか」「もう一度同じように」「同じことをすればできるかも」と考えるなら、シャープ同様の危険が忍び寄ります。さらに、過去の成功体験の再現という「共同幻想」を抱き、教会全体が、「だから、同じことをしよう。きっとうまくいく」と信じて突進すると、完全にヤバイです。

  
 過去の成功体験は感謝なことですが、安易にその再現を願い始めるなら、それは悲劇の始まり。もしかすると、ある教会の悲劇は、「既に始まって久しい悲劇を、悲劇として認識できないこと」にあるのかもしれません。

 また、「そもそも、それって成功体験だったの?」という厳しいお声も。「押しかけた人々は、あの若者たちは、教会学校の子どもたちは、球場での信仰決心者は、今はどこにいるの?」という痛い問いかけも耳にします。そもそも、教会に集う人数が増えた現象を「成功」と評価するのは疑問でしょう。ましてや再現を願うほどのことだったのかは、さらに疑問。

 
 しかし、人は愚かにも「失われた過去を、過剰に美化し、盲目的にその再現を願う」もの。 出エジプトの民は、エジプトで悲惨な抑圧に苦しみ叫び続けていたのに、出エジプト後の辛い旅路の中で、「エジプトの方がよかった」とまで、言い出す始末。「現状に不満を抱く群衆」は悲惨な過去さえ美化し、それを復元しようと願います。

  
 コロナによって、通常の礼拝を失った神の民も同じです。ある教会は、形式においても礼拝者の意識においても、全く同じ状態を復元することを目標にします。失った過去を美化して、その復元を最優先目的とするのです。

 そもそも、そうした教会は、以前から礼拝の外的形式に信仰のアイデンティティーを置いてきたのでしょう。外的形式を満たすことが信仰の確認作業だったわけです。教会や礼拝の本質や目的を問うことなく、本来の成熟を目指してこなかったと想像されます。

 その結果、ポストコロナの時代にありながら、ビフォアコロナのあり方に歩むのです。これには、「そもそもビフォアコロナの時がそんなによかったの?」「不満・文句も多かったじゃないの?」「それじゃあ、エジプトに戻りたいと言った神の民と同じでしょうが!」というツッコミが聞こえてきそうです。これは「エジプトに戻りたがる教会」と呼びましょう。

  
 他方、コロナとの戦いの中で、より本質を見極め、次の時代を展望し、新たな理念をもって歩もうとする教会があります。神様が導くアフターコロナにふさわしいありようを模索し、前進していくのです。こうした教会の多くはビフォアコロナの時代から、教職や役員たち、リーダーたちが、本質を見抜き未来展望的に歩んでいるものです。

 こうした教会においては、外的形式は復元に向かったとしても、実質は「復元」でなく、「前進」をしています。同じ形式でより真実な礼拝をささげ、同じ組織で、新たな理念で宣教や教会形成をします。もちろん、将来的には、新たな理念や歩みにふさわしい形式や組織へと変化していくでしょう。こうした教会は、「カナンに進みゆく教会」と呼びたいです。

 
 というわけで、コロナ収束後、日本の教会はこれまで以上に「二極化する」と私は、予想します。それは・・・

カナンに向かって進みゆく教会と
エジプトに戻りたがる教会

コロナによって過去から解放される教会と
コロナ故により強烈に過去に執着する教会

復元よりも前進を目標とする教会と
復元のみを最優先目標とする教会

ポストコロナ対応の理念と実践に歩む教会と
ビフォアコロナのままで歩み続ける教会

ポストコロナにおいて、実を結ぶ教会と
シャープ同様の結末に至る教会

 
 今、日本のキリスト教会が戦後史上、最大の分岐点にあるかもしれないと感じているのは、私だけでしょうか?