婚活、結婚準備

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「恋愛結婚激むず時代に突入!④ ~結婚観の適応不能?」

〈クリスチャン女子からの質問〉
 クリスチャン女性から、時にいただいた質問。
「恋愛はしたくないけど結婚はしたいって、おかしいですか?」
「恋愛感情なしに結婚してもいいのですか?」
「ときめかないけど信頼できる相手と結婚するって異常ですか?」
これらに対しては、こう答えてきたように記憶します。
「異常でもおかしくもない」
「むしろ、ある意味その方が聖書的かも」
「聖書の時代の女性たちは・・・・」
〈恋愛の意外な歴史の浅さ〉
 神様が人類に性欲と恋愛感情を与えたのは、結婚のためと考えるのは聖書的でしょう。恋愛の究極的ゴールを結婚と考えることも聖書的だと思います。しかし、逆に、恋愛経由でなければ結婚できないとか、恋愛感情なしには結婚したくないとなると、聖書的ではないと考えています。
 聖書の直接的読者が生きた時代は、「恋愛・結婚・出産」の三者が一つであったかと言えば、そうではありません。ロマンティック・ラブ・イデオロギーが登場するのは、キリスト教国であっても、18,19世紀まで待たなくてはなりません。
 それまで、一体であった三者は「性・結婚・出産」でしょう。そもそもキリスト教社会には、「恋愛」という観念が存在しませんでした。特に女性は「父親が決めたいいなずけ」と結婚するのが通常でした。女性は社会的地位が極めて低く、生きるためにする「生存婚」をせざるを得ませんでした。
〈昭和の教会の結婚観〉
 恋愛結婚自体が日本で一般的になったのも、ここ50年ほどのことです。それ以前はお見合い結婚が主流でした。さらに言えば、専業主婦という女性のライフスタイルも、歴史においては、極めて一時的なもの。そのように、歴史的に見れば、恋愛結婚が最近の一時的な在り方に過ぎないのです。ですから、それを標準や普遍的に考えるのが、そもそも間違っているわけです。
 もし、昭和のキリスト教会が、恋愛結婚を普遍的あるいは標準的なものと思わせているとしたら、それは、残念なこと。これは自戒を込めて思うのですが、聖書的と見える結婚観が、実質においては「ロマンティック・ラブ・イデオロギーの教会版」だったのかもしれません。そう考えると、自分が恋愛結婚をしたクリスチャンの親や牧師が、同じことを息子や娘に、次世代信徒に押し付けることは、現代では「不適切にも程がある」のかも。
〈どう考えるか?〉
 ですから、恋愛結婚にあこがれること、希望することはOKですが、恋愛結婚を目指すこと、それにこだわり他を排除することはNGでしょう。クリスチャンなら、「導き婚」を願い、プロセスや方法にはこだわらないことが賢明かと思うのです。
 「恋愛結婚の終焉」の中で牛窪先生は、恋愛と結婚を切り離せないでいることが、結婚のハードルを高くしていることを指摘します。つまり「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が、若者の中に根強く残存していることが結婚困難にしているわけです。
〈分離困難な恋愛と結婚〉
 私は「性・結婚・出産」の三者が一つと考えるのは聖書的だと考えています。また、これは西洋の価値観を取り入れた明治以降の日本においての伝統的価値観であったでしょう。これも日本では150年程度の歴史しかありませんが、日本社会に定着してきました。。
 しかし、今や、性関係を持っても結婚しないことが、許容される時代になりました。当人だけでなく親も許容している時代です。そのように、「性」と「結婚」は分離しても、「恋愛感情」と「結婚」は分離できないでいるわけです。「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の拘束力、恐るべしです。
 これは欧米にはない特徴的な現象なのだとか。特にヨーロッパでは、「恋愛と性と結婚と出産」三者の一体性は失われています。フランスにおける事実婚の多さ、子どもの半数が事実婚関係の両親を持つことなどは、その典型例でしょう。
〈まとめ〉
 日本は今、「恋愛結婚の終焉」を迎えつつあります。「恋愛結婚激むず時代、突入!」です。それは、一般社会だけでなく、キリスト教会も例外でないように感じています。いいえ、キリスト教会においても、既に深刻な問題となっているのに、その認識がないこと。それがさらに深刻な問題だと感じています。