次世代育成と世代間問題

「老人は夢を見ず、青年は幻を失う③~残像継続強制による幻の喪失」

〈一般的な教会にも〉
 昨日、指摘して考察した問題は、外国人宣教師によってスタートした開拓教会だけではありません。著名牧師やカリスマ性の高い日本人リーダーによって、教会の規模が飛躍的に大きくなった場合、歴史が長い、有名牧師を輩出するなど「名門教会」のプライドがあったりすると同様の問題が起こりがちです。
 さらに言えば、そうではない一般的な規模の教会でも、「開拓時牧師の心酔者」「前任牧師への心理的依存者」がいると、同様の課題が起こります。
 前任牧師に育てられた高齢信徒たちは、自分が青年時に救われ、育てられたその「残像」を見ながら、教会生活を送ります。前任牧師着任時から、活躍してきた高齢役員の中には、聖書よりも、その牧師の言葉が真理となっており、聖書の「みことば」よりも、その牧師の「おことば」の実現が神様の御心とお考えの方も。
〈恵みの継承と残像の継続の違い〉
 もちろん、築き上げてきたよいものは、創設者や前任牧師の尊いご労を感謝し、プラスの遺産は継承すればよいのです。そうした継承を後任牧師に求めることは、当然でしょう。しかし、一方で、どんなに偉大な牧師でも、かつて実を結んできた実践は「時代と社会の拘束」を免れることはありません。
 もはや、経済成長期ではありません。80年代タイプの量的教会成長は終わっています。ほとんどの人が就職し、結婚し、多くの女性が専業主婦であった時代も過ぎ去りました。その時代に機能し、実を結んだ事柄の中には、そうでなくなっているものも少なくないのが現実。
 検討も、取捨選択もなく、無思慮に従来からのあり方を継続するなら、そのことが、現代と今の日本社会における主の働きを妨げるのは明らかです。「過去の恵みの継承」と「残像の継続」は、似て非なるもの。それは、「形を変えての本質の継承」と「本質を失った形式の保存」の違いです。私たち人間は、年齢に関係なく、後者のような「金の子牛」に依存して、安心やアイデンティティーを獲得したがるものです。
 残像の継続や再現のために、機能しない方法論や実を結ぶことない諸集会やイベントを継続したらどうなるか?前任牧師の意向と言葉を、自動的に時代と社会を超えた普遍的なものとして受け止め、かつての実践の繰り返しとその言葉の実現を目指していけばどうなるのか?
 そこにあるのは、多忙さばかりで、実りのないむなしい教会生活です。目的不明で労することからくる徒労感です。その結果、自分たちの世代の教会員だけが満足するだけで、未信者に振り向かれず、若い世代が去っていく教会になるのは必然でしょう。これは、キリストの体が、教会の中心的高齢層の自己満足、自己充足のために用いられているという構造です。
〈後継牧師たちはどうなるか?〉
 聖書は、信仰リーダーの世代交代と権威委譲を記録し、それが神様の御心であることを示しています。本来は、上に記してきたような残念な状態にならないために、後継牧師は立てられたはずです。
 その牧師は、実績は乏しく前任者と比較すれば、頼りなく思えるでしょうが、未来における可能性があります。時代と社会に合致した新たな教会のあり方を信徒共に祈り模索することでしょう。多くの場合、後継者としてふさわしい聖書的で健全な幻を与えられているものです。(逆に、肉的な幻や自己実現に過ぎない幻なら、ベテラン信徒による修正、廃案が必要でしょう)
 残念ながら、主による召しや幻がないかのように、残像継承者として牧師を扱うケースがあります。牧師の幻など聴く耳持たず、残像の継続と再現を求め、圧力をかけます。その結果は、どうなるでしょう?そこに起こるのはタイトルどおり、「老人は夢を見ず、青年は幻を失う」です。
 
私は同労者の一人として言いたいです。
「ただでさえ、深刻な教職者不足なのに、ダメ押しをして、どうすんの?」
「日本のキリスト教会の衰退にトドメを刺す気かよ?」と。
 若い世代の牧師の離職率の高さが指摘されます。いまどきのヘタレ気質、豆腐メンタルなど、当人たちの未熟さや世代間ギャップも一因でしょう。しかし、私は、それ以上の大きな原因があると考えています。その一つは「高齢信徒が夢を見ず、残像を見ていること」そして、「その継続と再現を強要すること」です。「過去の恵みの本質の継承」と、「過去の残像の外形上の継続」を取り違えていることです。
〈自身の相談事例から〉
 こうした苦境にある牧師から、相談をいただくこともしばしば。まずは、忍耐をもって、対話と丁寧な説明努力を勧めますが、それさえかなわないケースもあります。その場合は、「神様から教職者として召されながら、搾取、利用されてはいけない」「今の先生をご覧になり、神様は悲しんでおられると思う」「現状が続くことは神様の御心ではないと思う」「忍耐と我慢は違う」と伝えます。
 ケースによっては、教会や団体からの転任、辞任、休職、牧師職からの離職を勧めたこともあります。その際には、「逃げるのではない」「責任放棄でもない」「間違った罪悪感を抱いてはならない」、「挫折、失敗と思ってはいけない」「勇気ある賢明な撤退です」と諭したことを思い出します。
「献身を全うするためにこそ、自らを守りましょう」「召しに応えるためにも、心病む前に、現場を去りましょう」「教会がすべてではない、結婚、家庭も神様からの召し」「この場合は自分と家族の安全と心身の健康を優先するのが御心では?」そう訴えたこともあります。
〈教会という超高齢化社会の中で〉
 教会は一般社会をはるかに超える高齢化社会となりました。その結果でしょう。「自らの存命中の快適さだけを求めて、未来と他者を顧みない」という高齢者独自の罪の現われによって、将来ある若手牧師の伝道者生命が脅かされるケースは、近年ますます増えているようです。
 この現状を受けて、いくつかの団体や教団は、相談窓口やメンターなどシステムを作り、支援を始めています。「叫び声」に応えて、適切な対応をしているわけです。ただ、このことは、まだ、一部のことのようです。今も、多くの牧師たちがこうした「聖なるセイフティーネット」に守られることもないまま、叫び声が黙殺されている現状を思います。
 一般社会では、高齢者は社会的弱者ですが、キリスト教会内では、牧師とその家族も、社会的弱者だと言えるでしょう。牧師の人事と経済を役員が握るなら、時に高齢役員が強者で、牧師が弱者となります。牧師と高齢信徒の関係性が、「愛による信頼の関係」でなく「力による支配と依存の関係」となる時、教会はいのちを失います。若手牧師は主からの幻や実りある将来を失いかねません。
〈結び〉
 高齢役員と若い牧師と対立は以前からあったことでしょう。しかし、近年はそれとは、「程度」においても「質」においても異なる「深刻な事例の増加」を実感しています。そうした現場感覚から、この投稿を記してみました。お役に立てば、感謝です。