次世代育成と世代間問題

「老人は夢を見ず、青年は幻を失う②~残像を見る高齢者たち」

〈見るのは夢でなく残像〉
 御霊に歩む成熟した高齢者は夢を見ます。では、成熟せずに、肉に歩み続ける高齢者は何を見るかと言えば、それは「過去の残像」です。主にある「夢」の内容が、未来についての希望なら、肉的思いの内容は、過去の残像」です。その根底にあるのは、「過去の個人経験に対しての執着」。そして、そこから生ずる肉的な願望は、「過去の残像の継続」や「過去の個人経験の再現」。
 その願望を実現することは、「見よ、私は新しいことをなす」と宣言し、「目が見たことも耳が聴いたこともない恵み」を約束する神様の業を妨害するのは、明らか。創立時のポリシーに立ち返ること、正しく聖書的な伝統に立ち返ることは、前進であり、神様の恵みと業を進めることにつながること。しかし、「過去の残像の継続」や「過去の個人経験の再現」は創立の主旨や伝統とは、似て異なるもの。
 そこで、大切なのは、両者の識別です。なぜなら、自分の肉的欲求実現を「創立の趣旨」や「伝統」と称して、正当化することは、少なくなりからです。当人も両者を識別できずに、本気で自分が正しいと思って主張するので、なかなか大変なのです。若手牧師には、ぜひとも、両者をしっかり区別して、欺かれ、利用されぬようにと願います。
〈典型事例としての外国人開拓教会〉
 過去の残像の典型例として、一番、分かりやすいのは、「開拓時の外国人宣教師」という「残像」です。外国人宣教師が開拓をした教会を、日本人牧師が後継した場合、悲しいほど、うまくいかないのは、周知の事実。
 宣教師側にも、日本人牧師にも課題はあるのでしょうが、大きな要因の一つは、信徒がいただき続ける「残像」だと私は考えています。外国人宣教師との出会いを通じて、信仰をもった方々の中には、次の成熟段階へと進まない方も。むしろ、「進もうとしない」「進まないと決めている」と表現した方がよいでしょう。
 なぜなら、信仰者としてのアイデンティティーが、いつまでも、外国人宣教師にあるからです。言い換えるなら、キリストでなく、宣教師につながっているからです。今の高齢者が若かったころは、西洋文化への憧れは強く、キリスト教会は、外国人と触れ合い、西洋文化に接する貴重な場でしたから、それが福音に触れ、求道を始める機会にもなりました。ですから、現在以上に、宣教師が信仰のアイデンティティーになりやすいのも理解できます。
〈残像継続要求と成熟拒否体質〉
 神やキリストにつながらず、指導者など人につながるのは、クリスチャンにおける「典型的な未熟さの現われ」です。さらなる悲劇は、そのような未熟な状態に留まることを、神様は悲しんでおられるのに、当人はそれを最も快適で最善と思っていることです。なぜ、「残像の継続」を願うかと言えば、それが最も「快適」だからです。快適な残像の継続を、肉性は切望するもの。
 未熟さに留まる方は、外国人宣教師から日本人牧師にバトンタッチが行われた後にも「残像」を見続けます。日本人牧師と共に教会を建て上げ、地域宣教をしていく「夢」は見ません。見るべき「夢」を見ず「残像」をみるのです。そして、外国人宣教師の時と同様のあり方という「残像」の「継続」を描きながら、教会生活を続けます。
 後継者である日本人牧師の使命は、いわば教会を「幼児」から「児童」へと成熟されることです。しかし、開拓教会の中心信徒たちが、幼児期の残像を見ながら、児童へと成長するのを拒否すると、後継牧師は大変です。自らの聖書的で明白な「幻」の実現と、中心的信徒たちの「根本的願望」が、極端なまでに相反するからです。
 外国人宣教師が継承を前提に、中心信徒を成熟に向かわせた後、日本人牧師が、それを受け継ぎ、開拓時の未熟さを考慮しながら、じっくりと教会形成をしていけば、いいのでしょうが、そうはうまくいかないのが現実のようです。
〈現在も継続中の課題として〉
 読者の中には、この「残像をめぐる問題」は、30年から50年以上前のことと受け止める方も少なくないでしょう。確かに、この課題が多発したのは、その期間でしょう。また、開拓教会の衰退後に、日本人牧師が「再開拓」をしてこられたケースも多々あります。
 しかし、一方で、現在に至っても、この「残像継続要望体質」や「残像再現欲求」を温存し続けてしまい、開拓時からの成長を果たせないでいるケースを多く見聞きします。いまだに、教会の主要役員が、自分が青年時代に経験した外国人宣教師開拓教会の再現を、就任する日本人牧師に強く求めてしまい、それが対立構造を生み出すことは、珍しくありません。
 この対立を機に、肉的な役員が教会を去ることは少なく、分裂するか、牧師が辞任をする場合が多いように観察します。特に、教会会計の多くを支え、不動産などを提供した中心信徒が、そのようである場合はそうです。よほど謙遜な人物でない限り、その中心役員がオーナーで、牧師は「雇われ店長」となります。そうなれば、聖書的な「教会論」や「教職論」など建前だけで実質はありません。
 「教会のかしら」は、未熟な中心役員であり、牧師は、聖書でも御心でなく、その「かしら」の意向に沿うことが強制されます。これは、事実上のパワハラだと、私は思います。なぜなら、経済と人事を左右できる権力によって、聖書とも御心とも異なる要求を強制するからです。安定した生活を継続するためには、「外国人宣教師開拓教会風路線」をとり「教会を成熟させない教会形成」をせざるを得ない状況に追い込まれるわけです。
〈相談事例から〉
 この数十年、高齢の中心役員がオーナーのようになり、短期間で牧師が交代していく教会をいくつも見てきました。謙遜に対話を試みつつも、結局は幻を失い、去っていった青年牧師の声をお聴ききしてきました。忍耐の限りを尽くした末に、最終的には聖書に立ち、残像継続・残像再現を拒否したために、有力役員の多数派工作によって、辞職に追い込まれつつある牧師たちを応援してきました。
 高齢者が抱く、若き日の残像、個人経験への執着は強烈なものです。過去の個人経験は当人の内側では、唯一絶対の真理となり、福音にとって替わります。その力はしぶとく、50年以上にわたって、教会を開拓時の未成熟状態に留めます。成熟に向かわせようと労する牧師の幻を失わせ、その労を空しいものにし続けます。もし、心当たりがあるなら、そうした牧師と家族、残像に囚われている方、そして、教会のためにお祈りいただければと願います。
〈まとめと予告〉
 今回は、夢を見ない老人がみるのは、「残像」であることを記しました。代表的事例として、外国人宣教師による開拓教会の事例を考察してみました。残像が、牧師たちの正しい幻を失わせること、そして、今も、教会の成熟と神の業を妨害していることをお伝えしました。
 多くの読者は、既にお気づきだと思います。このことは、外国人宣教師による開拓教会に限ったことではないと。明日はそのことを記します。