次世代育成と世代間問題

「老人は夢を見、青年は幻を現実に⑤~仕分けでなく発展的継承」

〈仕分けではなく・・・〉
 民主党政権時には「仕分け」がありました。その趣旨については、賛同があった一方、具体的な対象、方法やプロセスなどについては、批判もありましたし、違和感や不快感を覚えた国民も少なくなかったように記憶します。正しい趣旨でも、物事を変える際には、様々な知恵や配慮が必要なものです。
 教会においても、過去について評価をして、継承すべきものとそうでないものを取捨選択するというのは、正しいことでしょう。しかし、自分が関係した事柄が継承されないとなると、過去を否定され、自分まで否定された気持ちになりがちなもの。いいえ、検討対象とされるだけで、自分がさばかれるような気持になる方も。
 丁寧な説明は当然のこと、心情的配慮もなく、高齢者の残像継続欲求をバッサリ切り落とすことは、賢明ではありません。教会内の世代間分離を深め、牧師と信徒の信頼関係も損ないかねません。「脱皮はしても弱体化するヘビ」となります。かといって、高齢者への忖度と心情的配慮を優先してしまうと、本来為すべき改革ができなくなります。「脱皮しないヘビ」となり、教会は死に向かいます。
〈発展的継承〉
 私の先輩牧師は、ある団体の改革を担った際に、「改革」という言葉ではなく「発展的継承」という文言を用いられました。これは、「単なる言葉の言い換え」、「ものは言いよう」「印象操作」ではないと私は思っています。単に改革に対する批判や反発を避けるための「言い換え」ではなく、逆に「改革の本質」を示しているのだと思ったのです。
 キリスト教会においては、ほとんどの「改革」は「発展的継承」と言えるのではないでしょうか。本質的には、何も変更しないからです。根本的な理念や信仰理解を変えることは、あまりなく、改革の多くは、組織、運用、プログラムなど本質的でない要素に関することが多いはずです。
 極論すれば、宗教改革さえ、本質以外を切り捨てて、再スタートした「発展的継承」であって、本質を変化させたわけではありません。従来の在り方については「改革」なのでしょうが、本質については、「発展的継承」と言えるのではないでしょうか。
〈両者の違い〉
 「改革」という言葉は、「変えること」に重点が置かれ、過去に対しての否定的評価を前提しているかのような印象を与えています。つまり、正しくよいことなのに、誤解を受け、悪印象を持たれてしまいます。
 教会における「改革」は、過去を否定することはありません。むしろ、過去を感謝し、過去を再解釈し、現代の文脈の中で活かし、過去にあった「本質」を継承するのです。前提は過去に対する感謝、先輩や先人への敬意です。この有無が、正しい改革の際の心情的反発や世代間の断絶を防止します。
 「改革」は、「変えること」に重点が置かれますが、「発展的継承」は、「続ける」ことに重点が置かれます。前者は、過去に対しての否定的評価を前提しているかのような印象を与えかねませんが、後者が、過去について肯定的評価を前提としています。前者に込められているのは、「ここを変えたい」との願望でしょうが、後者に込められているのは「本質を継承したい」との思いです。
〈問われるのは本質〉
 そこで、問われることは、本来、継承すべき「本質」です。残像の継承は単純です。従来通りのことを今後も続けること、外面上の同じことを繰り返すことですから。
 しかし、本質の継承は簡単でありません。「本質は何か」を特定し、理解し、教会で共有することは、なかなか大変なことです。「人それぞれでいいのでは?」と、それに向き合いたくない方もいらっしゃるものです。
 でも、高齢者が見るべき夢の内容は「自分の目の黒いうちの残像継続」ではなく「見ることがないかもしれない本質の継承」であってほしいと願うのです。このことは、たぶん、最終回となるであろう次回で扱います。