次世代育成と世代間問題
次世代育成と世代間問題
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に①~ペットボトル茶の始まり」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に②~教会備品としてのドローン」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に③~タイトルそのまんまの事例」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に④~今の視点からの再解釈」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に⑤~仕分けでなく発展的継承」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に⑥~老人が夢を見るために」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う①~夢を見ない高齢者たち」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う②~残像を見る高齢者たち」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う③~残像継続強制による幻の喪失」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う④~脱皮を拒否で死に向かうヘビ」
- 「巨泉さんの名言に触れて」
- 「若者に教会に来て欲しいと願うその動機は?」
- 「意味も目的も求めない世代を前にして」
- 「天動説としての世代間ギャップ問題」
- 「パウロ世代とテモテ世代の相互理解のために」
- 「若者に教会に来て欲しいなら、瑛人の香水を聴け!(前編)」
- 「若者に教会に来て欲しいなら、瑛人の香水を聴け!(後編)」
「老人は夢を見、青年は幻を現実に⑥~老人が夢を見るために」
今日で最終回です。少し長いですが、お付き合いを。
聖書は一貫して、高齢者の尊厳を示し、敬愛の対象としています。同時に、多くの信仰リーダーが晩節を汚した事例も隠さず記録しています。「白髪は栄の冠」(箴言16:31)など高齢者の尊厳の根拠となる言葉がよく知られていますが、同時に聖書は高齢者独自の課題を指摘し、そのことへの牧会方針も示しています。
前者が高齢者の肯定的側面なら、後者は、否定的側面、前者が「敬愛」なら、後者は「戒め」と言えそうです。しかし、高齢者への配慮もあって、後者は、教会内であまり語られません。そこで、高齢者に正しい夢を見ていただくためには、必要かと思い、聖書の言葉を二か所、引用します。
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〈テモテの手紙の場合〉
「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。」(Ⅰテモテ5:1)
パウロは、テモテに高齢男性を叱らないようにと勧めます。テモテは年若く、信徒から軽んじられるような課題があったようです。男性はプライドの生き物で、常に男性同士は力関係で自他を考えがちなもの。年配の男性が、息子のような年齢の指導者に叱られて、素直に過ちを認める困難さは否めません。
「父親に対するように」というのは、当時の親に対する一般的な態度、つまり「敬愛をもって」を意味するのでしょう。具体的には、高齢男性独自の課題や過ち、逸脱に対して、「ダメ出し」、「上から目線」ではなく、「リスペクト」をもって、「お願いベース」で優しく諭すことを勧めているようです。
つまり、ここでは、冒頭に記した「敬愛」が命じられているわけです。
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〈テトスの手紙の場合〉
「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。」(テトス2:1、2)
テモテとテトスは同時期のパウロの弟子のようですが、二人の境遇や牧会していた教会は異なります。ですから、パウロは、テトスに対しては、年配者に対して忖度することなく、健全な教えにふさわしい指導をするよう励ましています。
パウロがテモテに勧めたのは「敬愛」でしたが、ここで、テトスに勧められているのは「戒め」「教育」「指導」と言えるでしょう。
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〈背景に見る高齢者の課題〉
その背景には、高齢者独自の課題を持つ信徒たちの存在が見えてきます。それらを整理してみてゆきます。
① 自制、品位、慎み
「自分を制し、品位を保ち、慎み深く」との言葉の背後にあるのは、それを失いやすい高齢者の現実。クリスチャンとして成熟し、本来はこれらの徳を身に着け、後輩の模範となりたいものですが、なかなか、そうはいかないものです。
欲求をコントロールできなくなること、以前の品位を失うこと、慎みを忘れてしまうことなどは、高齢者独自の衰えと弱さ、そして課題。この三つが、教会内でも「老害」をもたらします。例えば、立場をわきまえられず、強い感情に押されて、言うべきでないことを言ってしまいます。行き過ぎるといわゆる「暴走老人」に。
② 信仰における健全さ
聖書には、優れた信仰リーダーが晩節を汚す事例が多く記録されています。晩年に信仰における「健全さ」を失うのです。人は加齢によって、衰えると、それまでは、他者や神様との関係で抑制されていた「肉性」が、先鋭化し、露骨に現れやすいもの。それは、支配欲、自己承認欲求、自己効力感獲得など。それが、自分個人が願う教会の外的な在り方を実現しようとする衝動につながるのでしょう。
③ 愛における健全さ
成熟に向かう高齢者は、神と隣人への愛を深めてゆきます。愛において「健全」なのです。一方、高齢となるに連れて、愛において「不健全」になっていく場合があります。愛よりも肉性が優先してゆきます。「自己愛的」になり、神様のみこころではなく、「自己願望を実現する教会」を願うようになります。あるいは、自覚なく「自己願望」を「神様の御心」に置き換えます。
④ 忍耐における健全さ
高齢になると、特に男性は、せっかちになり、怒りっぽくなりがち。余命を意識するのでしょうか、目の黒いうちに結果を見たがるようになります。そうなると、年少の牧師の結実や若い世代の成長を待つことができず、批判や不満に向かいがち。信仰の先輩でありながら、後進のため、忍耐をもって祈り、共に成長し、教会を建て上げていく歩みを失います。
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〈課題がもたらすもの〉
これら、「自制、品位、慎み」、そして、「信仰と愛と忍耐においての健全さ」を失う時、高齢者は「主にある夢」を見なくなり、「肉性に由来する残像の継続」を願うようになります。継承すべき「本質」を見失い、「外形の継承」をばかりを願います。
高齢者が持つべき「慎み」を失えば、時代と社会の変化に対応できない自らも見失い、自分が経験した残像を最善であると信じ、しかも愛と善意をもって、押してきます。忍耐不足となるので、人によっては、強引な手段を用いたり、不当な圧力をかけたりして、牧師や次世代を苦しめます。
以前にも記したように、このことが近年、深刻化して、若手牧師が、一つの教会にとどまり、働きを続け、教会を建て上げることが困難となっています。日本の教会の将来に、暗い影を落とす重大な事柄なのですが、課題の性質上、アンタッチャブルとされてきました。しかし、某牧師の叫びとリクエストを受け、これ以上の沈黙と放置は、自殺行為に近いと実感し、ご批判と好感度下落を覚悟で、このシリーズを記してきました。
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〈そこで提案〉
高齢者には、これらの「免れがたい肉性の現われ」があります。高齢まで生きるなら、誰もが、この肉性に葛藤することでしょう。ですから、高齢者を嫌悪してはなりません。やはり、基本は「敬愛」です。高齢者独自の課題も含めて、敬愛していくことが神様の御心でしょう。課題のある方でも、高齢者は尊敬し愛してゆきましょう。
一方で、高齢者側も神様からの期待があります。ですから、高齢者自身も聖書から語り掛けを受けて、御心に歩んでいただきたいものです。旧約聖書が描く晩節を汚す事例、老害の数々、新約聖書の書簡が示す高齢者への戒めなどを受け止めていただきたいのです。少々耳の痛いみ言葉も、スルーせず、応答していただき、教会の次世代にプラスの遺産をもたらしていただければと願います。
聖書以外に、もう一つ信仰所の紹介です。大嶋重徳先生の「若者と生きる教会―伝道・教会教育・信仰継承」(教文館)をぜひ、ご一読ください。ここにはベテラン世代が、次世代を愛し、育て、活かす指針と共に具体例が記されているからです。
その代表は、ベテランが次世代に語りかけたこんな言葉。
「大切なことは伝えたよ。後は、あなたたちのやり方でやりなさい」。
つまり、本質を伝え、その具現化は次世代に委ねるのです。普遍的なものをしっかり伝える責任を果たして上で、その時代と社会の中で、どう表現し実行するかについては、次世代に委ねるのです。なぜなら、次世代が適任で将来の責任者だからです。
同著に登場するベテランは、大切なことを「語るだけ」でなく「自ら実践し」「模範を示し」「次世代にやらせて」「未熟さをフォローして」、それから、この言葉を伝えています。
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〈まとめとアピール〉
伝えようとしているのは本質でしょうか?
それとも、外形でしょうか?
継承を願うのは、普遍性を持つものでしょうか?
それとも特定の時代と社会の中で、具現化された限定的なものでしょうか?
前者を託されるなら純粋な若者たちは、試行錯誤をしながら、それを社会と時代にふさわしく具現化していくことでしょう。そして、形を変えて、本質は継承されることが期待できます。
後者を託されるなら、若者は「意味もなく、目的も不明で、これまでと同じことを同じようにしないさい」というメッセージとして受け止めます。教会生活に意味を実感できず、何のための信仰かわからなくなり、教会から姿を消していくのは、ある意味、必然でしょう。
高齢者こそ、成熟していただきたいです。ベテランらしく、「何が本質であるか」をわきまえて、「外形」ではなく「本質」の継承を願い、祈り、労してください。本質を大切にし、それを実践し、模範を示し、次世代に託し、失敗を許しフォローし、育ててやってください。いいえ、この地上を去るその日まで共に労し、共に成長してくださいますように。
どうか、高齢者の皆様におかれましては、そうした自らが主から期待されている夢、未来についての夢を見ていただければと願います。
そして、教会としては、パウロがテモテに命じたように、高齢者を敬愛する教会、同時に、パウロがテトスに命じたように、高齢者の健全な歩みを導く教会でありたいものです。
