次世代育成と世代間問題
次世代育成と世代間問題
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に①~ペットボトル茶の始まり」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に②~教会備品としてのドローン」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に③~タイトルそのまんまの事例」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に④~今の視点からの再解釈」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に⑤~仕分けでなく発展的継承」
- 「老人は夢を見、青年は幻を現実に⑥~老人が夢を見るために」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う①~夢を見ない高齢者たち」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う②~残像を見る高齢者たち」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う③~残像継続強制による幻の喪失」
- 「老人は夢を見ず、青年は幻を失う④~脱皮を拒否で死に向かうヘビ」
- 「巨泉さんの名言に触れて」
- 「若者に教会に来て欲しいと願うその動機は?」
- 「意味も目的も求めない世代を前にして」
- 「天動説としての世代間ギャップ問題」
- 「パウロ世代とテモテ世代の相互理解のために」
- 「若者に教会に来て欲しいなら、瑛人の香水を聴け!(前編)」
- 「若者に教会に来て欲しいなら、瑛人の香水を聴け!(後編)」
「老人は夢を見ず、青年は幻を失う④~脱皮を拒否で死に向かうヘビ」
〈知人牧師が経験した一事例〉
これで最終回です。今回は、二つの分かりやすい事例の紹介から。一つ目は、知人牧師の経験談。高齢化して若い世代がいなくなった地方都市にある教会。その教会の役員たちが、ある有名牧師に「若い人たちに来てもらいたいから、若くて力ある牧師を送っていただけないか」と依頼。その牧師は、自分が育ててきた、若手有望伝道者を送ります。私も彼は最適の器だと思っていました。
若者に来てもらえるようにと、具体的な提案始めます。「礼拝賛美にはギターも」と提案すると即刻否決、門前払いだったとのこと。一事が万事で、若者に伝道するための具体案はほとんどが否決。遣わした有名牧師も、現実を認識したのでしょう。たった数年で、彼は呼び戻されることに。
「若者に来て欲しい」と願いながら、そのための「改革や変化については拒否」していたわけです。事実上は「教会を変えないで、若者に来てもらえる教会にしてほしい」という要求をしていたわけです。「自分は変わらずに、状況だけが変わること」を願っていたということ。
一定、自分たちが招いた残念な状態の「結果責任」を、共に負うための外部者を招きながら、「外部者だからこそできるはずの解決」を拒否しているように見えます。これは、瀕死の病状を訴えて、自宅に医者を呼びながら、診察も治療も拒否して、健康にして欲しいと要求しているようなものです。
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〈名門教会の一事例〉
もう一つは、先日、友人牧師からお聞きした事例。日本を代表するような名門教会での出来事。若者を教会に招こうと、意欲ある信徒たちが、伝道的なイベントを企画して、役員会に提出。最終的には承認され実行されたそうですが、ことごとく否決され続けたとのこと。
その企画内容は、極めて穏健で、特別目新しくもないもので、私には、否決される理由が分かりませんでした。もしかすると、教会の前例踏襲主義や名門故のプライドがネックだったのかもしれません。
その所属団体は、高齢化を受けて、伝道を重視して、若者の救いを願うよう方向転換しているようだと告げると、知人牧師はこう言いました。「総論賛成、各論反対ということでしょう」と。つまり「若者を教会に」という「総論」は賛成なのです。しかし、一方、そのための具体的な行事や教会に求められる変化という「各論」には、反対なのです。知人牧師は言いました。「各論に反対ばかりすることは、総論自体に反対しているのと同じだ」と。
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〈脱皮しないヘビの死〉
「脱皮しないヘビは死ぬ」という言葉があります。これは、経営の世界ではよく見聞きするフレーズ。上の二つの事例は、「脱皮をしないで、いのちを保つ要求」をした事例です。一つ目は自分を変えず(脱皮せず)に、若者を教会に(いのちを願う)という要求です。
そもそも、ご自分たちが脱皮をしない選択をしてきたから、いのちを失い死に向かっているのですが、どうも、そのことを自覚しておられない様子。若者がいなくなったという事実自体がそのことを伝えるメッセージなのですが、どうも、メッセージを聞き違えておられるようです。
二つ目の事例は、「若者を教会に」という総論(いのち)を願いながら、前例のない企画や教会の改革という各論(脱皮)を拒否しているという構図です。ヘビは生きたいと願っているのですが、「今の皮膚のまま」でいたいのです。「脱皮という未経験の世界」に飛び込むこと、その向こう側にある自らの姿に不安を覚えるのでしょう。
私たち人間は、前例踏襲、現状維持、同じ行為を繰り返すことなどによって、心の安定とアイデンティティーを得るもの。教会に来て、心の平安がないのは、厳しいものです。年齢を重ねれば、その傾向が強くなるもの当然です。だからこそ、決定権が高齢者に集中する組織は、「脱皮しないヘビ」となりやすいのです。
元号が「令和」となった今も、「昭和の残像」という皮膚をまとい続けるなら、そのヘビは確実に死に向かっていきます。多分、元号が「令和」の間にそのヘビは死に至るだろうと、私は予想しています。
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〈眼前に置かれた二者択一を見つめつつ〉
申命記30章19、20節において、モーセは民に対して、「いのちと死」の両者を民の前に置きました。そして、いのちを選ぶよう命じました。その目的は「あなたもあなたの子孫も生きるため」だと聖書は記しています。
そのように、神様は今日、神の民の前に「いのちと死」を置かれ、いのちを選ぶことを命じ、神の民とその子孫が豊かないのちを生きるよう願っておられるかのようです。その「いのち」とは、「脱皮を経て継続するいのち」であり、その「死」とは「脱皮を拒否した結果として至る死」なのでしょう。
そうです。「脱皮して、いのちに向かうか」か「脱皮せずに死に向かう」の二者択一なのです。そのような究極の選択を迫られる状況に、多くの神の民は置かれているように私は感じています。
ですから、決定権を有する高齢者の役員・長老の皆様にはとりわけ願います。牧師など信仰リーダーが訴える「脱皮必要アピール」や若い世代が提案する「脱皮企画」などについては、どうか、個人心情的な反応をすることなく、冷静に受け止めて、真摯に検討をしていただきたいと。
その決断は、ご自身と子孫の霊的いのちを、「いのちと死に二分しかねない決断」からです。役員や長老などに神様が委ねられた決定権には、そこまでの厳粛かつ重大な責任が伴うことを自覚していただければと願います。
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〈夢を見て、いのちの選択を〉
何より、「老人は夢を見る」という御言葉に生きてください。ぜひとも、「脱皮を果たした後のいのち豊かな教会」を夢見ていただきたいのです。その夢を若い世代と、教会全体で共有できたら、そのことを、どんなに神様は喜ばれるでしょう。
「わたしは、脱皮を経てのいのちと、脱皮を拒否しての死を、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生きるためである。」
今日の神の民へのそのような語り掛けとして、私の心には、申命記30章の19節と20節が、響いています。
