結婚生活、夫婦関係、離婚

「本当は聞かれたくない?再婚についての聖書の教理」

 学識のない私には、教理について、信徒からされたくない質問がいくつかあります。忖度なく、素朴な疑問を素直にぶつけて来そうな信徒を前に、「質問するなよー。尋ねるなよー」と心の中でひそかに願っていること、その一つが「再婚」です。
 「先生、再婚の聖書的根拠は?」「不貞以外で離婚した人が再婚したら、姦淫って書いてあるけど、いいんですか?」そんな恐ろしいことは尋ねないで欲しいと願っています。というか、そういうタブーなトピックを公で取り上げる自分が怖いわ。(今回の投稿はあくまで私見なので、安易に真に受けないで、極力、所属教会や団体の見解を確認して、聖書に向き合いじっくり判断してください。)
 
 聖書は新旧66巻が天から啓示として降ってきたわけではありません。神の言葉であると同時に、ある状況下で(霊感を受けた)人によって書かれた記録や手紙でもあります。その点を見失うと主観的な読み方や私的解釈になりかねません。
 ですから、文脈はもちろんのこと、その聖句が記され語られた状況、背景、対象などを考慮して、意味を確定すべきだと考えます。特に1節か数節程度の言葉を、それをせずに安易に拡大解釈をしたり、普遍化して「教理」としてしまうのは、典型的な間違いです。そして、離婚・再婚については特にカギとなる御言葉が語られ記された、場所、時代、状況、対象を考慮して、ち密に解釈するかどうかで、かなり、見解が分かれます。
 
 そこで、再婚の是非です。分かりやすくするため、ケース別、聖句別に整理します。
(1)死別または不貞による離婚を経ての再婚
 これは、全く問題なしと考えています。理由は簡単明瞭。「神が結び合わせたものを引き離してはならない」に反しないからです。死によって神による二人の結合は終了、姦淫(不貞行為)によって、神による結合は破壊済み。ですから、以前の結合は無効となっており、縛られることなく、再婚は自由となります。
 
(2)それ以外の理由による離婚を経ての再婚
a.まずは、原理原則で考えると
 死別と姦淫以外は、たとえ、法的に離婚が成立しても、神による結合は継続していると考えます。ですから、再婚は、法的には不貞行為に相当しませんが、神の目には、姦淫となるわけです。このように、「神が結び合わせたものを引き離してはならない」という原理原則に立つと、マタイ5:32や、19:9などは、普遍的真理のように解釈できるでしょう。Ⅰコリント7:11の「離婚した妻は独身でいるか夫と復縁の二者択一」というパウロの指導も、当時の特定の対象への言葉であるが、そのまま、現代のクリスチャンへの指導となります。
 
 カトリックは結婚がサクラメントであることも手伝って、さらに結婚の結びつきが尊重され、離婚と再婚については厳しい見解のようです。一方、プロテスタントでも、(入信前後に関係なく)死別不貞以外での離婚者の再婚は復縁以外を認めない教会や団体は、あります。私はこれには、個人的には賛同しませんが、決して「原理主義」として排除もしません。そうした聖書の読み方や教理も、一定尊重したいと願っています。
 
b.でも、緻密な聖句解釈をすると
 マタイ5:32や、19:9を読むと、現代の一般的な離婚と大きく異なる要素があるのに気が付くことがあります。一つは主体が男性であることです。「離婚して別の女性と再婚」という前提があります。さらに大切なことは、不貞以外の理由での離婚が、再婚と強く結びつけられていることです。「離婚してすぐ再婚」も前提のようです。
 ですから、ここで言及されているのは、「妻以外の女性との再婚を目的とした離婚」だと解釈するのが妥当でしょう。当時は、実際に、「不倫合法化のための離婚してすぐに再婚」というパターンが横行していたようです。妻以外の女性と性関係を持つと姦淫の罪になるので、離婚をして、その女性と再婚するのです。そうすれば、罪に問われなくて済むという姑息な手段です。いわば「妻を犠牲にしての合法的不倫」。
 そのように結婚という神による結合の尊厳が著しく損なわれた当時の社会背景を受けて、イエス様は特定の極めて悪質な離婚者に対して、厳しく戒めているわけです。大切なことは「誰に対して語られたか?」「普遍的か?限定的か?」ということです。その聖書箇所は、「一般的離婚者・再婚者」ではなく「姦淫合理化目的の偽装離婚再婚者」への語り掛けなのです。
 
 ですから、5:32と19:9から「不貞以外での離婚者の再婚は姦淫の罪に相当する」との教理を導き出すのは、間違いということになります。「限定的な対象に語られた数少ない聖句」から、「聖書全体を包括する教理」を導き出すのは、確かに正しくないでしょう。私は個人的にはこの見解に立っています。
 
C.では、第一コリント7章11節はどうなるの?
 福音書はそうであっても、パウロの教会に対しての指導は一読すると明白なように思えます。Ⅰコリント7:11では「離婚した妻は独身でいるか夫と復縁の二者択一」と単純明快な指導です。でも、私は、これも単純に字義通りに受け止めてはならないと考えています。
 これも、まず、直接にはコリント教会というかなり特殊な一教会の具体的な問題の対処として、記された手紙の言葉であることを忘れてはならないでしょう。少なくとも、今日の全世界の教会に直接語られて、そのまま守るべき言葉ではないということです。「聖書に書いてある通りに従う」のではなく「聖書に書いてあることが意味する通りに従う」べきです。特定の御言葉は、正しく解釈され、柔軟かつ適切に適用されるべきです。
 
 確認したいことが二つあるのですが、まずは、その一つ目です。実は、この言葉が語られている対象はコリント教会の信徒同士の夫婦です。明らかに、11節までは教会員同士の夫婦対象で、12節以降は未信者の伴侶を持つ教会員が対象です。
 二つ目は、コリント教会にあった特殊事情です。それは、教会への間違った禁欲主義の浸食でした。肉体を否定し欲求を禁ずることで魂が自由になるという当時のギリシャ世界の価値観が教会を浸食していました。
 そのために、「男が女に触れないのはよいこと」と考えて、妻と別居したり、離婚している男性信徒がいたのです。その間違いに対して、パウロは、「男が女に触れないのはよいことだが、不品行を避けるため、結婚をして、夫婦が性的義務を果たすよう」にと指導をしています。禁欲主義ではなく、正しく欲求を満たし、罪の誘惑から守られ、喜びに生きる歩みを示しています。
 現代からすれば、トンデモでしょうが、実際にこうした極端な男性たちがかなりの数いたようです。ですから、パウロは11節では、離婚された妻には、「独身か復縁の二者択一」と指導しますが、夫の側には、「そもそも間違った禁欲主義で妻と離婚するな」と、夫と妻では異なる指導をしているわけです。
 
 「離婚クリスチャン女性限定の独身か復縁の二者択一」という極端に見える指導の背景には、こうした事情があったことを忘れてはならないでしょう。極めて特殊な経緯での離婚者という限定的な対象に語られているのですから、ここから普遍的な教理を導き出すのはやはり、間違いだと個人的には考えています。
 そういうわけで、「離婚した男女は、独身でいるか復縁の二者択一」という教理とそれに基づく指導は、もしかしたら、ち密さに欠ける聖書解釈に由来するのかもしれません。失礼ながら、一度ご検討を。
 「本当は、再婚を正当化したいから、ご都合主義で、聖書を解釈しているんじゃないの?」とのご批判があるかもしれません。しかし、決してそんなことはありません。私自身、中立な立場で聖書に向かい合ってきたつもりです。その中で読んだのが榊原康夫先生の註解書でした。同著がきっかけで、この聖書箇所の解釈が明確となり、自分なりの見解を持つことができました。
 同じ改革派の山下正雄先生が、離婚経験のある未信者の男性との結婚で悩むラジオリスナーの質問に答えています。榊原康夫先生同様の解釈に立っての返答です。今回はそのサイトを紹介しておきます。正直に、この方のケースに聖書は言及しておらず、簡単に結論は出ないとしています。これは、とても聖書に忠実で真摯な回答だと思います。
 
d.それなら、再婚について肯定的な記述はあるの?
 聖書に積極的に再婚を勧めたり、明確に再婚を許容する記述があるかと言えば、ないように思います。しかし、女性の地位が極端に低かった社会にあって、離婚をした女性が、独身でいることは極めて困難で、生きるためにほとんどの離婚女性は再婚していたでしょう。
 聖書はそうした現実に言及もしていないし、それを非難もしていません。実際に初代教会においては、離婚を許容しながら、再婚を禁止することはありえなかっただろうと想像します。「離婚許容」と「再婚許容」はセットでなくては、現実性も一貫性もないわけです。
 
 とは言え、聖書に明確な記述はなく想像や推察に過ぎませんから、私は「再婚推奨派」ではなく「再婚容認派」です。安易な再婚だと判断される場合は、阻止すべきと考えています。また、「容認」ですから、再婚者の結婚式は、会衆が祝福することにおいては初婚と変わりませんが、豪華絢爛ではなく、質素であって欲しと願っています。