結婚生活、夫婦関係、離婚
「離婚についての聖書の記述~2017では訳が激変!」
先日、一読者から教えていただきました。新改訳第3版で「わたしは離婚を憎む」と訳されていたマラキ書2章16節が、新改訳2017では、激変。「妻を憎んで離婚するなら」と訳されています。(新共同訳では「わたしは離婚を憎む」)
つまり、憎む側も憎まれる側も、全く違っているのです。新改訳第3版では「神様が離婚を憎む」のですが、2017では「夫が妻を憎む」のです。
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学のない私は「なんでここまで変わるの?」と思ってしまいます。文法的、原語的なことはサッパリわからない私です。それでも、無い知恵を絞って予想した理由は二つ。
一つは、文脈からして前の節の「あなたの若いときの妻を裏切ってはならない」を受けての訳。当時、普通であったであろう若い時代に夫が、妻を憎んで安易に離婚することを禁じていると理解して、こうした訳になったのかも。
二つ目は読者への一定の配慮。「神が離婚を憎む」という言葉は、安易な離婚をしていた時代や背景から、切り離して読むなら、離婚経験者にとってはかなり断罪的に響くのでは?離婚経験のある未信者は、救いに招かれていないようにさえ感じるかもしれません。
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さらには、クリスチャンも時代や背景や聖書全体の教理から切り離して、読む方が多いのが、現実でしょう。そうなると、律法的に受け取り「神は離婚を憎む」→「離婚は罪」→「DVでも離婚せず耐えるべき」との判断に。
実際に昭和の教会では、牧師が離婚は罪なので、DVを試練と受け止め、忍耐するように指導することは、珍しくなかったように記憶します。聖書に書かれていなくても、神様が「わたしはDVを憎む」「私は、DVが続くような結婚を憎む」とおっしゃるのは、明らかだと、思うのですが。表面的な字義通りの理解が、逆に神様の思いを見えなくしているように感じます。
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さらには、相手のDVが理由で離婚したクリスチャンが、教会内で「罪を犯した人」のように言われ、教会にいられなくなる事例も少なくないようです。こうなると、まさに教会として本末転倒でしょう。
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とにかく、今回は、マラキ書2章16節の「わたしは離婚を憎む」が、2017では、「妻を憎んで離婚するなら」と訳されている事実をお知らせすることに意味があるように感じています。
多分、原語的にも文法的にも一定妥当性があるので、こう訳されているのでしょう。結果的には、この訳の変化によって、マラキ2:16が、文脈や背景から切り離されることから起こってきた問題は、減っていくだろうと考えています。
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「神は離婚を憎む」→「離婚は罪」→「DVでも離婚せず忍耐するのがみこころ」
この「自動思考」や「論理エラー」が激減することを、神様も願っておられると、私には思えてなりません。以上、数日前に教えていただいた事実をお分かちし、それについて思ったことなどを記してみました。
(追記)この投稿については、聖書翻訳の第一人者よりコメントをいただきました。極めて訳すことが困難な箇所だそうです。どうも、読者への配慮ではなく、言語学的に見解が分かれるようです。
