結婚生活、夫婦関係、離婚

「改めて考えたい、離婚についての聖書の教理」

 最近の投稿の関係で、クリスチャンになってから、離婚された女性の声をいくつか個人宛のメールでお聞かせいただきました。また、これまで同様のケースを数えきれない程、見聞きしたり相談を受けてきた中で、危惧していることがあります。
 それは、牧師などの指導者自身が持つ「離婚についての教理」です。よく感じるのが、マタイ19:6の「神が結び合わせたものを引き離してはいけません」が神様本来のみこころであって、パリサイ人が7節で反論として示したモーセの律法は「無効」であると理解しているのではないか?ということ。
 実は私自身も若い頃は、そのように理解していました。「イエス様が本来のみこころを示し、モーセの律法は破棄された。姦淫以外での離婚は、どのような場合でも罪なのだ」と。
 
 しかし、今は考えを変えています。イエス様はモーセの律法を人間の罪を考慮しての「例外的容認」であると説明してます。これは、離婚律法の正しい解釈であり、決して、律法の無効化を宣言しているわけではないだろうと思うのです。
 神様の本来のみこころを知った弟子たちは「妻に対する夫の立場がそんなものなら結婚しない方がまし」と本音を言いました。これは当時の神の民の標準でした。つまり、モーセの律法を「例外的容認」でなく「標準的権利」と考えていたのです。7節の「例外」と6節の「原則」が逆転していたのです。そして、イエス様は、その逆転を本来に戻すように語ったわけです。
 
 大切なことは、「離婚は当然の権利」というように、結婚についての神の民の価値観が、大きく逸脱していたという現状の中で、マタイ19章は語られていることです。この歴史的文化的背景と切り離して、マタイ19章を字義だけで解釈するのは、正しくないでしょう。同じく、離婚禁止の根拠となるマタイ5:32も同様だと思うのです。
 
 ですから、6節の原則論によって、7節の例外規定が失効したのではないのです。原則と例外規定の両方があって、結婚の教義なのです。原則によって結婚が祝福され、例外によって、結婚の尊厳が失われ続ける状態にピリオドが打たれるのです。離婚は神様の本来のみこころに反するという原則が最優先ですが、現実の罪の故に、場合によっては許容されるという例外は、今も有効なのです。
 
 DV被害者である妻に、離婚という選択肢を許可しない指導をたびたび見聞きしてきました。そうした指導は、マタイ19:6の誤読によるのではないかと危惧するのです。6節を前後の文脈や当時の結婚の事情と切り離し、字義的な解釈をして「絶対真理」と位置づけ、それによって、19章前半が示す離婚についての神様のみこころを読み損ねているように思うのですが、どうでしょう?
 そう考えると「離婚は罪」という文言はあまりに乱暴ではないかと思うのです。「離婚は神様の本来のみこころとは異なる」などが、聖書に忠実な表現かと考えます。また、「離婚は罪」というより「離婚は人類普遍の罪の結果」と表現するのが、丁寧で聖書的に思えます。
 
 さらに注目すべきは、マタイ19:9にも、5:32にも「不貞以外の理由での離婚自体が、姦淫の罪」とは、書かれていないことです。そこに書かれているのは、「不貞以外の理由で離婚した者が、別の相手と再婚することは姦淫に相当する」ということ。つまり、「姦淫の罪に相当」するのは、「不貞以外での離婚」ではなく、「不貞以外での離婚の結果としての再婚」なのです。(なぜ、そうなのかは、明日の投稿で記します)
 
 ところが、おかしなことに、「不貞以外での離婚は罪です」と教えながら、「再婚についてはフリーパス」ということはないでしょうか?「離婚は罪」と訴えながら、離婚者には再婚を勧めるということはないでしょうか?もし、字義通りの解釈をするなら、「不貞以外での離婚は罪」と「不貞以外での離婚者の再婚は罪」はセットになるはずです。
 
 つまり、「離婚は罪」と教えながら、「再婚は罪」と教えないのは、一貫性がないのです。「離婚回避原理主義」と「再婚容認主義」は本来両立しないはずです。両立させているとしたら、それは、厳密に御言葉に立っているとは言えないと思うのですがどうでしょう?
 聖書全体においても、字義的解釈を優先しながら、再婚についてだけは、例外であるかのように字義的解釈をせず、容認をしているなら、それは、何か「聖書信仰とは別の原理」によって、判断実行がされていることを意味するのでしょう。
 
 私自身は、「離婚容認」かつ「再婚容認」です。言い換えますなら、「離婚回避原理主義者」ではなく、「離婚回避原則主義者」であり、それ故に「離婚容認主義」です。そして、「再婚推奨派」ではなく「再婚容認派」です。
 広義でのいわゆる福音派の中では、離婚や再婚については、神学校で事例研究があまりされず、現場に出てからも、教職者間で議論がされないようです。タブー視する風潮さえあるとお聞きします。その理由の一つは、離婚と再婚について聖書から教理を導き出すことは、意外と困難で、それ故に見解が分かれてしまうことにあるのでしょう。
 
 そうした現状の故に、問題が現実化した時に、困惑しているケースが多いようにお見受けします。まずは、対処の基本的指針となる教理の確認をと考えて本日の投稿をしました。あえて、タブーに挑戦したのは、教会に集う離婚を考えざるを得ない方々、離婚経験者、そうした方々に仕える教職者のためなので、暴言の数々はご容赦ください。