結婚生活、夫婦関係、離婚

「離婚経験者は、愛の対象?議論の対象?」

離婚についてのの投稿を書きながら思った。
「離婚は罪」
「自殺は罪」
「同性愛は罪」
 
 そんな乱暴で不正確な言葉、聖書の真理を極端に単純化した文言で、その枠内に入らない人々や家族を排除し、活かすことも回復を助けることもしない残念な歩みが教会にあったのは紛れもない事実。そして、それは改善されてきたとは言え、今も色濃く残っているようだ。
 
 今回、参加した「離婚からの回復セミナー」では、離婚経験者自身の生の声を聞くことの大切さを、改めて実感。離婚されたクリスチャンの声、自死されたクリスチャンの生前の声、同性愛傾向に苦しむクリスチャンの声。
 
 多くの事例に触れてきたが、私自身も当事者の声を、常に真摯に聞いてきたかと問われれば、かなり怪しいと言わざるをえない。ましてや、その心に寄り添ってきたかと言えば、さらに自信はない。
 
 ヨハネ9章において、生まれながら目の見えない人物を前に、弟子たちは、「誰の罪が原因か?」と神学議論をした。今日の私たちも、離婚者、自死遺族、同性愛者を前に、神学議論をすることはないだろうか?当事者の声を聞こうとも、当事者に語り掛けようともせず、議論対象とすることはないだろうか?
 それは、目の見えぬ人物に生きる意味を語り掛け、触れて癒されたキリストとは似ても似つかぬありよう。枠内に入らない人々を前にした時、私たちが、キリストと最も似ていない要素の一つは、その人物を「愛の対象」とせず「議論対象」としてしまうことだろう。
 
愛の対象なら、人格だから、声も聞くし、語り掛けもする。
議論対象なら、物体だから、声も聞かず、語り掛けもしない。
 
20世紀に生きた哲学者サルトルは問うた。「飢えた子どもの前で、哲学は可能か?」と。
2000年前のキリストの弟子は平気でそれをした。今、私たちも無自覚にそれをしてしまう。
 
 無自覚なのだ。それをしてしまうことは、問題だが、もっと問題なのは、していながら、している自分に気が付いていないという「無自覚性」。皮肉にも、聖書的判断が、その無自覚性を補強してしまうことも。
 
神学的議論も聖書的判断も大切。しかし、当事者は、議論対象でなく、愛の対象。
だから、その声を聞かせていただこう。
愛をもって語り掛けよう。
できることなら、その心に寄り添おう。
それがキリストに似た者としての歩みだろうから。