信仰生活

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「それって試練なの?⑥~三つの視点を提案」

〈筋トレか?暴力事件か?〉
 まず、イメージしてください。愛をもって厳しく鍛える筋トレコーチがいます。あなたは、重いバーベルを握らされ、それを上げ下げするよう命じられます。苦悶の中でも、コーチの愛を信頼して、筋力増強を願って、忍耐します。その結果、筋力は向上し、より大きな恵みを受け止めることができるようになります。これが、聖書の語る試練でしょう。動機は愛、目的はより大きな恵みを担うにふさわしい筋力の獲得。
 もうひとつイメージしてください。憎しみに満ちた悪人がいます。あなたはこの人物から、バーベルを投げつけられます。何度も、何度も。体中は内出血を起こし、ついに、骨折をします。今は、日常生活を正常に送ることもできない体に。
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 前者は「筋トレ」ですが、後者は「暴力事件」です。ここで、「この人は、悪人でコーチではない」「これは筋トレでなく暴力だ」と気が付けばよいのです。
 しかし、当人は、これまで教会で聞いてきた一面的な情報で、「これは筋トレだ」「この人はコーチだ」と信じてしまいます。周囲の信頼しているクリスチャンたちも、「これは筋トレだから」「筋力が付くから」「益に変えられ、後で幸いになるから」と言うので、「忍耐しよう」と決意し、悪人を離れようとせず、被害は深刻化します。
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〈このシリーズの趣旨〉
 あまりに残酷、そして悲惨。昨日、記したヤコブ、ヨセフ、ダビデの事例のように「暴力事件に見える筋トレ」がないわけではありません。しかし、個人的に触れてきた事例を思い起こすと、被虐、いじめ、カルト被害、犯罪被害のほとんどは筋トレでなく、暴力事件に相当すると考えています。
 だとしたら、聖書の言葉を引用して「暴力被害者」を「筋トレだ」と断言し、悪人から離れさせることなく、悲惨な目に遭わせることは、どうでしょう?本来なら、教会やクリスチャンが決してしてはならないことのはずです。
 このシリーズはその事実を伝え、苦しみを試練でまとめる問題を提起しました。読者の皆さんが自他の苦しみを適切に識別し、「筋トレではない、暴力事件だ」「コーチではないから離れろ」と言えることを願って記してきました。
 そこで、最後に「何でも、試練でまとめない」ために、また、「暴力事件を筋トレだと決めつけない」ために、私なりに大切だと思われる聖書的視点を三つお伝えします。その提言をもって、このシリーズを終えます。
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〈解放されるべき苦しみという視点〉
 聖書が記す荒野の40年は試練であり、信仰の訓練ですが、エジプトでの奴隷生活は神様の遠大な摂理の中にあったとは言え、「試練」と言うよりは、「災い」「不当な苦しみ」だと考えています。
 学者によれば、奴隷の扱いにも社会的規範があり、ファラオのしたことは、極めて不当な行為なものだったのだとか。いわば、超ブラックな主人の下での奴隷生活を強いられていたわけです。神様はその民の叫びをお聴きになり、民を不当な苦しみから解放されました。
 出エジプトの出来事を罪の支配からの救いという霊的側面のみでとらえてはならないでしょう。教理を示す昔話のように受け止めてはなりません。これは、神様が働かれた歴史的事実です。さらに言えば、アメリカの公民権運動という「再実現化」された歴史的事実なのです。聖書の示す神様は理不尽な苦しみの支配下にあるご自身の民を、解放される神です。
 だとしたら、試練とは言い難い不当な苦しみの支配にある方の解放を願い、祈り、現実的な支援をするというのは、私たちが持つべき、聖書的視点と言えるでしょう。
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〈神の似姿としての尊厳という視点〉
 人間は他の動物とは決定的に異なります。人間は「神のかたち」に創造されているからです。ここに人間の尊厳があります。さらには、すべての人は、御子のいのちと引き換えにされるほど、価値ある存在です。
 ですから、クリスチャンであるなしに関係なく、神様は愛する人々が理不尽な苦しみにあうことを願っておられません。子どもがいじめにあって苦しんでいる親、大切な娘が夫からDVを受けていると知った親のように、心がつぶれるような思いをしておられるこでしょう。
 暴力や搾取や不正などの悪によって、著しく人間としての尊厳が損なわれている場合には、まず、その状態を改善すること、被害者を救済することが優先されるべきではないかと思うのです。
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〈悪を放置しないという視点〉
 理不尽な苦しみの背後には多くの場合、「悪」が存在します。バーベルを投げつける悪人がそこには、いるわけです。ですから、苦しみを試練でまとめてしまうと、その悪人を、「愛をもってバーベルを握らせる神様だよ」と伝えることになります。これでは、悪が放置され、悪の被害者が増えるばかり。
 ローマ12章の最後は私的復讐が禁止され、「復讐するは我にあり」とおっしゃる方に任せるよう私たちに語り掛けます。相手の頭上に炭火を積むこと(仇に愛で返すこと)が説かれます。私は復讐を神に委ねるとは、具体的には、13章1節以降が記していると読んでいます。つまり、神の権威を委託された国家権力、法律、警察、司法などに委ねることだと理解しています。神様は悪を裁く権威をそれらの世俗的権威に委ね、悪が正しく罰せられ、悪が抑制されることを願っておられます。
 ですから、苦しみの中にある方の解放のため、必要なら、具体的解決を図ることは、神様を除外した人間的ではなく、むしろ、聖書的であると私は思います。理不尽な苦しみの中にある方のため、責任者に解決求めること、法的解決を図ること、公共の専門機関、支援団体等に相談し助けてもらうことも、一つの選択肢とすべきではないでしょうか。
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 レイプ被害にあったアメリカ人のクリスチャン女性の証しを読んだことがあります。彼女は、加害者を訴え、法的裁きに委ねました。彼女がその選択をした理由は二つあります。一つは、自分のような被害者を増やさないため、もう一つは、加害者が罪を償い更生するためです。
 彼女は、まさに「復讐するは我にあり」とおっしゃる方に裁きを委ね、悪を抑制しました。さらに加害者の益を願い、頭の上に炭火を積みました。この証しを読んだ時、私は、日本のクリスチャンにありがちなこうした視点の欠け、福音理解の一面性を示された気がしました。
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〈まとめ、感謝、願い〉
 苦しみを試練でまとめることで、思考停止していないでしょうか?それによって、苦しむ自他に忍耐を強いて、神様が願っておられる治療、回復、解放を妨げていないでしょうか?結果として、その背後に潜む悪を放置し、かえって助長し、被害者を増やしてはいないでしょうか?
 このシリーズはそうした趣旨での「投げかけ」です。7回にもわたる長い連載をお読みいただきありがとうございました。このシリーズが、試練にまとめられ苦しんできた方のために、今、苦しんでいる方のために、これから苦しんだり、苦しめること方がなくなるために、役立つことを切に願っています。
 末筆ながら、お読みくださりながら、「いいね」を押すこともコメントを記すこともできない多くの読者の皆様の存在を覚えて、苦しみからの解放、回復をお祈り申し上げます。