「御心が分からないと悩むあなたに」

「御心が分からないと悩むあなたへ(2) ~灯としての導き>サーチライトとしての御心」

〈御心の確信が先じゃないといけないの?〉

 私の記憶が正しければ、大嶋重徳先生が結婚を相手を「御心の人」と確信したのは、結婚式での誓約の直前だったとのこと。そのように著書に書いておられたように思います。「それまで、御心の確信がなかったの?」と驚いたり、疑問に思ったりする読者もいらっしゃるかもしれません。
 私は、結婚相手に対しての「御心の確信」や「御心の実感」は、結婚式どころか、結婚生活開始後であっても、よいと考えています。むしろ、結婚前に大切なのは、「御心の確信」より「導きへの信頼」でしょう。「絶対この人!」との確信より、「この人との結婚へと神様が導かれている」との信仰的な感覚や判断が大切だと思うのです。
 そもそも恋愛感情が絡んだ「御心」や「確信」ほど、「怪しいもの」はありません。「御言葉が示された!」「確信が来ました!」と宣言しながら、結婚に至らなかった事例は、山ほど見聞きしてきました。「幻で示され」たり「夢で啓示を受け」たりで結婚し、悲惨な結婚生活を送っている事例もいくつか知っています。「一発で示されて確信」という世界を私は全否定しません。しかし、恋愛感情や自己欲求が強いと、「無意識による自己創作」の可能性も否めません。

〈サーチライトと灯、振り返れば御心〉
 そこで、お伝えしたいのが、「灯としての導き>サーチライトとしての御心」です。詩篇119篇105節からこんな説教を聞いたことがあります。「御言葉は私たちの道を照らす光ですが、それはサーチライトではなく、灯、提灯のようなものですね。ずっと先ではなく、一歩前を照らすのですね」
 神様の導きは多くの場合、サーチライトではありません。はるか向こうの未来の自分を示されません。灯のように数歩先までの路面を照らします。その導きを信頼して、一歩ずつ前進していくなら、それが、結果的に「御心の歩み」となっていくのです。
 成熟したクリスチャンは、そのように一歩ずつ、御心を尋ね求め、判断しながら、決断と実行に向かいます。決断の中には、中止や撤退もあります。そして、その途中や実行後に、振り返ってみて、「ああ御心だった」と実感します。多くの場合、「御心の確信」は、そのようなものだと私は考えています。

〈それってギャンブルかもよ?〉
 私たちはなぜ「御心の一発確信」や「インスタントな御心判断」を求めてしまうのでしょう。一歩ずつ判断し歩む、着実なプロセスが苦手なのか?いちいち御心かどうか祈って考える手間やストレスを回避したいのか?信仰的忍耐に伴う苦痛から逃げているのか?単に、信仰というマラソンレースで42.195キロを走らずに、近道をしてゴールをしたいという怠惰か?結局、神様とずっと話し合いながら、決めていく歩みが嫌いだという肉性なのか?そのあたりを自問してみてはどうでしょう?
 結婚や進路については、例外を除けば、神様が、はるか先や遠い未来の自分を示すことはないと思います。そのように確信を求めることは、「ギャンブルで一発当てて、金持ちに」という発想に似ているのかも。あるテレビタレントが言っていました。競馬場に行ったら、予想屋のおじさんが、お客に「一番確実な馬券は働くことだよ」と語っていたと。

〈まとめ〉
そこで、今回は、福音書風に、まとめてみましょう。
 競馬場にいる予想屋のおじさんが、「一番確実な馬券は働くことだよ」と言うのをあなた方は知っています。
しかし、私は言います。「一番、確実に御心を知る方法は、御言葉の灯を手に、一歩ずつ歩むことだよ」と

 というわけで、「灯としての導き」は「サーチライトとしての御心」に勝ります。滅多に手に入らないサーチライトを求めるのでなく、既に手にしている御言葉を灯としましょう。御言葉を読み、祈り、思索し、神の導きを判断した上で、一歩ずつを歩んでゆきましょう。

 それが「御心の分かるクリスチャンの歩み」かと思います。