「御心が分からないと悩むあなたに」

「御心が分からないと悩むあなたへ(4) ~そこに愛はあるんか?そこに神はおるんか?」

 自分のしたいことが御心かどうか悩みます。与えられた思いが神様からのものかどうかの判別も容易ではありません。自分の願いを御心に上書きしてはならないし、「自分の願い=肉的思い」と考えて、退けるのも禁欲的な間違い。そこで、今回は、判別基準の一つをご紹介。それは「動機」。つまり「それしたいのはなぜ?」ということ。とは言え、自分の動機が自分でも分からないことが。そこで、御心が分からず悩む皆様に、自問していただきたいのが、「アイフルCM的フレーズ」

「そこに愛はあるんか?」
「そこに神はおるんか?」

問われるべきは、「今野」だけでなく、すべてのクリスチャン。
問うのは、「女将さん」ではなく、神の前に立つ自分自身。

「そこに愛はあるんか?」
「それをしたいのは愛なんか欲なんか?」
「それをすることは、神と人を愛することにつながるんか?」

まずは、自問自答しましょう。

 「神を愛せよ、さらば、汝の欲するところをせよ」とは、アウグスティヌスの言葉だったと思います。何と、大胆かつ自由な命令でしょう。動機が神への愛なら、何をしてもいいとは思いませんが、動機が愛なら、御心にかなったものとなりやすいのは確か。

「そこに神はおるんか?」
「願いの世界に神様のご介入をいただいているんか?」
「自分一人で決めず、神様と相談してるんか?」

これまた、自問自答をしてみましょう。

私たちはあまりに欲求が強いと、「神を除外して神の意志を判断する」というトンデモをやらかします。それも、意外と簡単に。あるいは無意識に。代表的なのは、神を離れての自己実現、自己承認欲求の充足、劣等感の克服など。ともすれば、それらを聖なる目的を掲げて、教会奉仕の場でやりかねないほど、愚かな私たち。

 特に願った道が閉ざされたときは、動機を自問し、歩み直すことの検討もお勧めします。「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」(ヤコブ4:3)と御言葉は示します。自らがそれに該当するかどうかを顧みてはどうでしょう。ヤコブ4:3は、クリスチャンが「悪い動機」で求めるという事実を想定して、記されています。欲に駆られて神を除外し、自分の願望実現を追求しかねない私たちの現実があります。だからこそ、自らに動機を問うことが、御心からの逸脱を防ぎ、私たちを御心に歩ませるのです。

 最後にまとめます。

 神と人への愛が動機なら、御心である可能性が高い
異なる動機が強いなら、御心である可能性は低い
神の介入を受け、判断実行するなら御心の可能性は高い
神を除外し、自分の思い通りなら、御心の可能性は低い

あくまで可能性で確定ではなく、目安に過ぎませんが、動機は、大切な判断基準。
というわけで、御心が分からないと悩んでおられる皆様へは二つの自問をお勧めします。

「そこに愛はあるんか?」

「そこに神はおるんか?」