信仰生活

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「あるがままの自分からあるがままの神様への視点変更」

〈あるがままについての視点変更〉
 N牧師の著書の一部抜粋を紹介した投稿に、知人牧師から的確なコメントが。それは、「あるがままの自分からあるがままの神への視点変更」ということ。
 
 N牧師は、その視点変更をしたのでしょう。神様は、あるがままで愛し受け止めながら、決して「あるがままでいいよ」とは言っていないのに、そう言っている「自らの願う神」を神としてきたということ。言い換えるなら、「あるがままでない神」を神として歩んできたということ。そうです。聖書が示す「あるがままの神」ではなく「あるがままで愛するだけの神」を神としてきたということ。
 
 あるがままで愛されながらも、時に、その愛に応えることなく、聖書が示す「神様のあるがまま」を知ろうとしない私たち。むしろ、あるがままの愛を「口実」に自分に都合のよい神様イメージを作り上げ、本物と異なる神様(=偶像)と共に歩みかねない私たち。
 拙著「悪魔の格言」を引用するなら、「あるがまま、ずっとそのままいつまでも」を許容する神様。そのような神様と共に歩むことは、神様のみこころではなく、悪魔の思うつぼ。C.S.ルイスはもっと深く普遍的にこのことを「悪魔の手紙」で記しています。
 
〈あるがままの神の御心は〉  
 神様の願いは、「あるがままで愛された私たち」が、「あるがままの自らの罪」に向き合い、「あるがままの神様」を知り、その御心に生きること。
 神様が、「あるがままで私たちを愛しておられること」は、「あるがままの罪」を見過ごし、「ずっと、そのままであること」を許容していることを意味しません。
 なぜなら、聖書が示す「あるがままの神様」は、あるがままの罪人を愛し、その罪人が罪から離れ、神のみこころに生き、キリストに似る者へと変えられることを願う方だからです。
 
〈神様を比較してみた〉
 そこで、上に記してきたことを分かりやすくするために、「あるがままで愛するだけの神」と「あるがままの神」の比較表を作成してみました。「前者」は「あるがままで愛するだけの神」で、後者が「あるがままの神」です。
 
前者は、あるがままの私たちを愛する
後者も、あるがままの私たちを愛する
 
前者は、あるがままの自分に向き合わせない
後者は、あるがままの自分に向き合うことを願う
 
前者は、罪を直視することを免除し、悔い改めに向かわせない
後者は、罪の直視へと私たちを導き、悔い改めへと向かわせる
 
前者は、そのままを許容し、成熟と聖化の道を閉ざす。
後者は、変えられ続けることを願い、成熟と聖化の道へと導く
 
前者は、人に利用され、自己防衛、自己正当化、他者コントロールに役立つ
後者は人に利用されず、人をキリストに似たものへと造り変える
 
前者は、愛されること求め、愛そうとしないキリスト者を生み出す。
後者は、愛されるより、愛そうとするキリスト者を生み出す。
 
前者は、現代人が自己都合のために刻みやすい偶像
後者は、時代を超えて、聖書が示す生きて働かれる現実の神様
 
以上が、「あるがままで愛するだけの神」と「あるがままの神」の違い。
「あるがままの自分」から「あるがままの神」への視点変更してみませんか?自分に執着し、自己愛を満たそうとする視点から、あるがままで愛して下さる神様のその「あるがまま」に視点を転じようではありませんか。
 
 見えてくるのは「あるがままで愛するだけの神」ではなく、あなたをあるがままで愛された張本人!その方こそ「あるがままの神」。そこに、N牧師が経験されたと同じ神様からの恵みが注がれることでしょう。