信仰生活
信仰生活
- 「御心が分からず悩むあなたへ①~聖書が記す普遍>記さない個別」
- 「御心が分からず悩むあなたへ②~灯であってサーチライトでない」
- 「御心が分からず悩むあなたへ③ ~御心って保険じゃないし」
- 「御心が分からず悩むあなたへ④ ~そこに愛はあるんか?」
- 「御心が分からず悩むあなたへ⑤~ひとりでなくつながっている」
- 「それって試練なの?①~二つの代表事例」
- 「それって試練なの?②~試練でまとめないでください」
- 「それって試練なの?③~なぜ、試練でまとめたがるの?」
- 「それって試練なの?④ ~後からほのぼの想うもの」 ㅤㅤ
- 「それって試練なの?⑤~別格の苦しみの存在」
- 「それって試練なの?⑥~三つの視点を提案」
- 「悪魔の逆福音~いっさいのことを自己承認欲求で行いなさい」
- 「あるがままの自分からあるがままの神様への視点変更」
- 「あるがマニアの時代①~福音との関係において」
- 「あるがマニアの時代②~神様との関係において」 ㅤ
- 「あるがマニアの時代③他者との関係において 」 ㅤ
- 「あるがままで愛されたら 自己肯定感は向上するのか?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン①~それは何か?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン②~聖書中の事例」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン③~あるあるの事例」
- 「信仰による自己肯定感低下①~原因としての認知の歪み」
- 「信仰による自己肯定感低下②~曖昧さを生きる力」
- 「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」
- 「信仰による自己肯定感低下④~自己肯定感の低さ=謙遜?」
「悪魔の逆福音~いっさいのことを自己承認欲求で行いなさい」
〈悪魔の逆福音書〉
「『いっさいのことを、愛をもって行いなさい(Ⅰコリ16:14)』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしは、あなたがたに言います。『いっさいのことを、自己承認欲求をもって行いなさい』と。
「『いっさいのことを、愛をもって行いなさい(Ⅰコリ16:14)』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしは、あなたがたに言います。『いっさいのことを、自己承認欲求をもって行いなさい』と。
愛ではなく教会の皆さんに認めてもらうために、奉仕しなさい。アナニヤとサッピラのような動機で多額の献金をしなさい。賜物を認めてもらうために、賛美奉仕者となりなさい。信仰を認めてもらうために公の場で立派なお祈りをささげなさい。親や周囲からの期待に応えて、認めてもらうために、フルタイム献身をしなさい。
そうすれば、多分、人は喜ぶだろう。そして、間違いなく、わたしは喜び、神は悲しむのです。」
〈解説〉
以上が悪魔の逆福音書。フェイスブックの交わりの中にいると、時々自分が、「自己承認欲求充足・互助会」に所属しているように感じる。お互いに「いいね!」を与え合って、お互いの自己承認欲求を満たしているという不健全な交わりに生きているように思えるのだ。そう思えてきた時は、自分が投稿する動機を確認して、我に返る。
あるクリスチャンたちは「あなたはあるがままで神に愛されている」を福音の中心として位置づけ、「あなたは私の目には高価で尊い」という語り掛けに愛を実感する。
皮肉なことだが、そのようなクリスチャンほど、自己承認欲求が強かったりする。あるがままで愛されていると本気で受け止められないのか、神様の視点に立って、高価で尊い自分を見出せないからだろうか。常に、自己承認欲求充足を目的として行動する。そして、欲求実現の場を教会やクリスチャンの交わりとするから混乱が起こる。そこでは、すべてが自己承認欲求充足のために利用され、相手の自己承認欲求を満たすことが「愛」とされるからだ。
その結果、いっさいのことにおいて、「自己承認欲求」が本来の動機であるべき「愛」にとって代わる。ああ、恐ろしい。
パウロは、コリント教会の問題の本質を「動機としての愛の欠落」だと指摘している。愛がなければ、異言はうるさいだけ、山を動かすウルトラ信仰も無に等しく、全財産ささげるスーパー献身も何の役に立たないと断言している。そう。愛がすべてを決めるのだ。愛がないなら、通常は、賞賛されるはずの行為すべては、「うるさく」、「無に等しく」、「何の役にも立たない」のだ。
たとえば、奉仕、献金、賛美に祈りなどが、悪魔の希望どおりに自己承認欲求でなされる。さらには、親や周囲に認められたくて献身するケースも珍しくないようにお見受けする。多くの場合、それによって、自己承認欲求は一時的に満たされるだろう。しかし、その後も、満たされ続けることはない。なぜなら、その自己承認欲求は「底なし」だから。「神様の愛による自己承認という底」がないからだ。
そうした教会生活は、神様の目と耳には「うるさく」、「無に等しく」、「何の役にも立たない」だけで、教会をコリント状態に陥れかねない。当事者の皆さんは、今回の悪魔からの語り掛けを受けて、一日も早く、そのことに気が付いていただきたいもの。
大切なのは、「気づき、認めること」。罪人には「動機、愛100%」は困難。そこに自己承認欲求などの「混ぜ物」があるのが、通常。要は、その混ぜ物を自覚し、認め、悔い改めることだ。そうすれば、動機は純化され、賜物は用いられ実を結び、健全な教会が建て上げられていく。
自己承認欲求の混入を自覚しているクリスチャンは、第一の手紙でなく、第二の手紙を受けたコリント教会を建て上げるだろう。一方、無自覚なクリスチャンは、教会を第一の手紙を受けたコリント教会に留めてしまう。
「悪魔の逆福音」を受けて、想像して欲しいのだ。コリント教会に宛てた手紙に、結論のようにして「いっさいのことを、愛をもって行いなさい」と記したパウロの思いを。
そして、自らの動機を問いたいと願う。現代人を根底で突き動かしている承認欲求を捨てて、愛を動機として歩み、教会を建て上げるお互いでありたい。