信仰生活

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「信仰による自己肯定感低下④~自己肯定感の低さ=謙遜?」

〈謙遜の考え違い〉
 師によれば、自己肯定感の低いクリスチャンにありがちな誤解は「自己肯定感が高いのは、高慢ではないか?」というもの。逆に言えば、「自己肯定感の低さ=謙遜」との考え違い。
 聖書が記す「謙遜」とは、自己卑下や自分を事実より低く評価することではないでしょう。師は「謙遜」を「自分のできることと、できないことを理解し、できないことは人に助けてもらうような姿勢」と説明。
〈あるあるの事例〉
 これを受けて思い浮かぶのは、あるあるの事例の数々。自己肯定感の高いクリスチャンは、劣っている事実が劣等感になりません。自分が劣っていること、できないことを、平安の内に受け止め、他者に知らせて、助けてもらいます。言い換えれば、「チームプレー」をするのです。ですから、自己肯定感の高い人は「できないことをカバーしてもらえて、うれしい、感謝!」となります。
 一方、自己肯定感が低いと、残念な事実を受容できず、他者に素直に助けを求められず、「個人プレー」に留まります。自分の内側で苦悶するだけで、他者との関係に生きようとしません。自分では、助けを求めないのに、助けようとしない周囲に怒りを抱き、責める方さえいます。「自分はダメ、しかも誰も助けてくれない」と独り相撲状態で被害者意識に。同じ状況にあっても、自己肯定感の違いが、喜びと苦悶、他者への感謝と他者批判を分けるのです。
〈謙遜≠自己卑下〉
 以前、知人牧師が、ある投稿に対して「自己卑下は偶像礼拝」とのコメントをくださいました。その聖書的根拠はコロサイ2:23でした。そこにはこう記されています。「これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」
 これは、み使い礼拝をする禁欲主義的な人々に警戒するようにとの趣旨で書かれたものです。聖書は「自己卑下」を、「何の価値もない」「聖霊によって変えられていない肉を満足させるだけ」と厳しく戒めています。
 しかし、どうでしょう?自己肯定感の低さは、私たちを「謙遜という名の自己卑下」に誘導しないでしょうか?そして、「何の価値もないことをしながら、肉的な満足を得ている」状況に、私たちを閉じ込めてしまうことはないでしょうか。
〈聖書的な謙遜の理解〉
 日本は謙遜を美徳とする文化的土壌を持ちます。さらに、他者から高慢と思われることを怖れます。そのためでしょうか?クリスチャンになっても、「謙遜=自己卑下」「高い自己肯定感=高慢」のように考え違いをしたままで歩みがち。そのためにタラントを地中に隠しているクリスチャンも多数。聖書が記す「謙遜」を正しく理解し、それに歩もうとする時に、低い自己肯定感に閉じ込めていたものが、取り除かれるかもしれません。
 4回にわたり、「信仰による自己肯定感低下」を記しました。しかし、実際には「信仰による」のではなく、「信仰についての考え違いによる」のです。今回のシリーズを通じて、考え違いが示されたなら、聖書的な考えにシフトしましょう。それを通じて、結果として自己肯定感が上がれば、感謝なことです。
 
 
 
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