信仰生活

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「信仰による自己肯定感低下①~原因としての認知の歪み」

 
〈認知の歪みが原因〉
 タイトルは工藤信夫先生の名著「信仰による人間疎外」に倣ったもの。このシリーズでは、先週オンラインでお会いした「自己肯定感のプロ」として尊敬している牧師から学んだことをお分かちし、私なりの考察を記します。
 師によれば、自己肯定感が低い、第一の原因は「認知の歪み」だそうです。認知の歪みとは物事を、客観的に公平に正しく見ることができないこと。代表的なのは、「100-0思考」と呼ばれる考え方の癖。「二分割思考」とも呼びます。すべてを100点か0点の両極端のどちらかとして認識します。現実社会は、ほとんどが、両者の中間のグラデーションなのですが、その現実を認識できません。
 大和ハウスのテレビCMで松坂桃李さんが「中トロ寄りの大トロ・大トロ寄りの中トロ」「カニ寄りのカマボコ・カマボコ寄りのカニ」と電話で語り掛けているようなこと。二つのどちらか一つしかないという思考から抜け出せないのです。どうも、このCM、電話の相手は認知の歪みを持つ人物のようです。
〈信仰の故に?〉
 キリスト教信仰の中には、二項対立的、二元論的に受け取られやすい要素が多くあります。神と悪魔、光と闇、善と悪、聖と俗、救いと滅び、真理と偽り、教会と世などです。福音を二元論的に理解してしまうと、すべての事象をどちらか一方として認識します。しかし、霊的世界や観念的世界とは違い、現実は両者が入り混じっており、聖書もその入り混じった人間世界の現実を記しています。
 こうした認知の歪みがもたらすのは、「100点でなければ0点」という評価です。いわば完璧主義。「一点でも罪があれば、本来は滅び」「一つでも従えなければ不従順」など、「完全でなければ全否定」という価値観が聖書にはあります。それをすべての事象に当てはめるとどうなのでしょう?完全に神様のみこころに合致していなければ、全否定となります。つまり、100点でなければ0点なのです。
〈クリスチャンだから?〉
 自己肯定感の低いクリスチャンは、そのような基準で自己評価をしがち。誰にでも神様に喜ばれるところもあれば、悲しまれるところもあるもの。しかし、認知の歪みは、一つでも悲しまれるところがあれば、それがすべてと考えさせます。そして「自分は何一ついいところはない」と言います。こちらが、「そんなことはないよ」とあれこれといいところを伝えても、全体評価は0点のまま。
 どうも、「クリスチャンなのに自己肯定感が低い」「神様にあるがままで愛されているのにどうして?」ではないように思えます。むしろ、「クリスチャンだから」という面もあるのでは?そこでタイトルを「信仰による自己肯定感低下」としてみました。4回ほどの連載となりそうですが、お付き合いいただければ、幸いです。