信仰生活
信仰生活
- 「御心が分からず悩むあなたへ①~聖書が記す普遍>記さない個別」
- 「御心が分からず悩むあなたへ②~灯であってサーチライトでない」
- 「御心が分からず悩むあなたへ③ ~御心って保険じゃないし」
- 「御心が分からず悩むあなたへ④ ~そこに愛はあるんか?」
- 「御心が分からず悩むあなたへ⑤~ひとりでなくつながっている」
- 「それって試練なの?①~二つの代表事例」
- 「それって試練なの?②~試練でまとめないでください」
- 「それって試練なの?③~なぜ、試練でまとめたがるの?」
- 「それって試練なの?④ ~後からほのぼの想うもの」 ㅤㅤ
- 「それって試練なの?⑤~別格の苦しみの存在」
- 「それって試練なの?⑥~三つの視点を提案」
- 「悪魔の逆福音~いっさいのことを自己承認欲求で行いなさい」
- 「あるがままの自分からあるがままの神様への視点変更」
- 「あるがマニアの時代①~福音との関係において」
- 「あるがマニアの時代②~神様との関係において」 ㅤ
- 「あるがマニアの時代③他者との関係において 」 ㅤ
- 「あるがままで愛されたら 自己肯定感は向上するのか?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン①~それは何か?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン②~聖書中の事例」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン③~あるあるの事例」
- 「信仰による自己肯定感低下①~原因としての認知の歪み」
- 「信仰による自己肯定感低下②~曖昧さを生きる力」
- 「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」
- 「信仰による自己肯定感低下④~自己肯定感の低さ=謙遜?」
「それって試練なの?②~試練でまとめないでください」
〈試練でまとめないでください〉
スマホCMであのちゃんは言う「若いでまとめないでください」と
今回の投稿で、私は言いたい「試練でまとめないでください」と
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〈親の視点で想像〉
苦しみを伴う出来事や状況が試練なのかどうか?その判断材料の代表は、神様の愛でしょう。神様が愛の故に与えているのかどうかです。私たちは神様の思いを完全に知ることはできませんが、親の視点に置き換えて想像することはできます。
愛する子どもが、学校の人間関係で悩んでいるとします。この状況なら、多くの親は子どもを学校に行かせるでしょう。子どもを愛し、この状況を乗り越えて成長して欲しいと願うからです。しかし、我が子がいじめに遭っていると知ったら、どうでしょう。親は、学校に事実確認や対処を願うでしょう。しばらく学校を休ませる親もいるでしょう。愛する子どもを守るためです。
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もう一つ想像しましょう。愛する娘が結婚し、夫との不一致に悩む時、アドバイスはするでしょうが、乗り越えて夫婦として成長することを願います。
しかし、娘が夫から恒常的にDVを受けていると判明したら、どうでしょう。親として夫婦関係に介入するでしょう。娘の安全を優先し、避難、別居をさせるでしょう。専門組織に相談し、解決を図るでしょう。
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〈アバウトな判断基準〉
こうした想像は、神様の愛の視点を推測するには有効でしょう。この想像は、「試練」と「試練ならざる苦しみ」を判別するある程度の指針を示すのではないでしょうか。
また、コメントで何名かの方が指摘してくださったのですが「試練」の本質は「苦しい状況」にあるのではなく「信仰が試され鍛えられること」にあります。つまり、目に見える外的要素でなく、見えない内的要素こそが本質なのです。
そこで、私なりに三つアバウトな判断基準を考えてみました。
第一に「動機」、苦しみに留まらせる動機が愛か否かです。
第二に「目的」、苦しみの中で成長することを願うか否か。
第三に「結果」、もたらされるのが信仰の成長か衰弱、破綻か。
不十分でしょうが、大まかな指標としては役立つでしょう。
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〈試練でまとめることの問題性〉
考えてみましょう。試練でない他者の苦しみを「試練」と断定し、苦しみの中に留めて、乗り越えさせようとすることは何を意味するでしょう?それは、一見、信仰的判断で愛の行為のように見えますが、本当にそうでしょうか?
私は思います。たとい、苦しみの中にある相手のためであっても、事実に反する虚偽で、その状況に留まらせることは、神様が望まれることだろうかと。もし、苦しみの中にある方が、何の実りもなく破綻していった場合、「試練ではなかった」と認め、「謝罪する覚悟」はあるのかと。破綻した方に謝罪はできるとしても、「苦しみに留まらせた責任」を取れるのかと。
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他者に対して、試練でないものを試練と断言することがあるとすれば・・・。それは厳しい表現をすれば、事実に反するのですから「悪意のない騙し」になってしまいます。事実に基づいた視点で苦しみを受け止めさせず、苦痛の軽減を図るなら、それは、「苦痛軽減目的の宗教的麻薬」と言えるでしょう。
当事者が至る結果を考えれば「責任がとれない決定的は判断ミス」となりかねません。医療で言えば、診断を間違えて、病状を著しく悪化させる「誤診」、「医療ミス」に相当します。神の子がそのような悲惨を経験することを神様はどんなにか悲しんでおられることでしょう!
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〈乱暴な単純化、一面的福音理解〉
「信仰生活中の苦しみ=試練」、「クリスチャンの苦しみ=信仰の訓練」というのは、乱暴なまでの単純化だと私は思います。「試練でまとめないでください」と私は言いたいです。それは、福音全体ではなく、一面的な福音理解を用いた「未熟な苦しみの解釈」ではないでしょうか。(その一面性については4回目あたりで記します)
「試練ではない可能性」や、「誤った判断の危険」があることを私たちは謙虚に認めるべきでしょう。もし、聖書的な試練とは異なる要素がありそうなら、まずは、判断保留して、時間をかけ慎重に判断するか、判断自体を断念することでしょう。
そして、判断より先にすべきことを優先するのが賢明でしょう。とりわけDVや虐待のようなケースは、聖書的な生命尊重や人間の尊厳の尊重の視点に立ち、危険状態からの保護を最優先すべきではないでしょうか。
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最後にもう一度、あのちゃんのごとく言いたいです。
「試練でまとめないでください」