信仰生活

信仰生活

「あるがままで愛されたら 自己肯定感は向上するのか?」

昔は一つの仮説を持っていた
人はあるがままで愛されたら
自己肯定感は向上するものだと
それが理論上、正しいと思っていた
でも、現実が仮説と一致しないのだ
あるがままの愛が定着して久しいが
クリスチャンの自己肯定感は低いまま
特に女性たちの低さは、驚くほど
クリスチャンホームの親たちも
信仰で怖れや罪悪感を与えることなく
肯定的な言葉で子どもを育てる傾向に
でも、子どもの自己肯定感は低いまま
恋愛・結婚相談、親子問題の相談
結婚の前のカウンセリングでも
見えてくるのは自己肯定感の低さ
信仰的に成熟していて、そうなのだ
そこで別の仮説を持つようになった
あるがままの愛を受け、実感しても
自己肯定感は必ずしも向上しないと
両者は必ずしもつながらぬ別物かと
あるがままの愛が好まれ続けるのは
むしろ、自己肯定感が低いままだから
欠乏感があるから満たす必要がある
受容があるから求められ続けるのだと
人格の成熟と自己肯定感は別のものでは?
信仰と自己肯定感は比例しないのでは?
高い自己肯定感は望ましいだろうが美徳か?
少なくとも信仰の目的ではないだろう
昔とは別の仮説に立ちながらも
それにも確信が持てぬまま
今回は問いかけをしてみた次第
お読みいただき、感謝するばかり