牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「信徒から牧師夫人への要求②~皇族女性との類似性」

〈例外とされる牧師夫人〉
 牧師夫人は教会の中で、例外的な存在。「あるがままで愛し合おう」と言いますが、牧師夫人は「あるがままでは愛されない存在」。「主にあって自分らしく」と言われますが、牧師夫人は例外。「信徒の要求に沿って、自分らしさを殺して役割に徹する」ことが要求されます。
 女性の社会参加が奨励される中にあって、牧師夫人は教会にいることが好ましいとされます。これだけ多様性が尊重されながらも、牧師夫人は画一的な在り方を求められます。
 聖書に直接的な記述がないのだから、当人の賜物、適正、神学教育の有無、職業経験、神からの召し、自身の希望などによって、決められていけばいいのでしょう。ところが、「前任の牧師夫人と同様の役割」を強制されることが少なくありません。さらには、経験もスキルもない奏楽、お花、お菓子作り、幼稚園教諭まで、強要されることも。これはきつ過ぎます。
ㅤ 
〈皇族女性との類似性〉
 日本社会において、同様なのは、仏教僧侶の妻たち。いわゆる「おくりさん」。そして、あまり指摘されないのでが、実は皇族女性。教会、お寺、皇族といずれも、強い宗教性を持ちます。信徒(あるいは国民)の意向に沿った女性のあり方を強いられるわけです。
 皇室女性の一部からは「私たちには人権がない」との趣旨の発言があったのだとか。これは画期的なこと。しかし、教会の中では、同様の「叫び声」や「嘆きの声」さえ、発することが許されていないのかもしれません。
 皇族女性たちは、宗教性、国家権力、宮内庁の圧力、国民の意向などに縛られ、自分らしく生きることができません。通常の女性には、耐えることが困難なストレスやプレッシャーがかかります。皇室女性たちが、精神疾患を患うのも、ある意味、必然と言えるでしょう。
ㅤ 
〈キリスト教会も同様〉
 それは、キリスト教会でも同様。牧師夫人が信徒から、皇族同様の人権侵害的発言を受けることは珍しくありません。心の病を抱える牧師夫人、礼拝出席もできなくなっている牧師夫人を時に見聞きします。しかも、牧師夫人が鬱状態であることを信徒に伝えると、さらなる問題が予想されるため、隠さなくてはならない教会もあるようです。
 皇族が日本国民でないように、牧師夫人はあたかも「神の民」ではないかのようです。あるがままでは愛されず、主にあって自分らしく歩むことが許されないからです。皇族女性に人権がないように、牧師夫人には、それがないかのような教会も。
ㅤ 
 今回は皇族女性との類似性で、考えてみました。この課題を考え、良い方向に向かう参考になれば、感謝なことです。