牧師、牧師夫人、牧師交代

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「兼業牧師について考える⑥~信徒にバルナバ期待せず」

〈信徒にバルナバを期待する牧師?〉
 教会員の誰かが、宝くじの高額当選をして、多額の献金しないかなあと想像する牧師はあまりいないでしょう。でも、裕福な信徒が、不動産を売却して、多額の献金してくれたらとは、考えるかもしれません。
 これは、使徒の働き4章の末尾が記すバルナバの事例です。始まったばかりの教会はこの捧げものによって、大いに励ましを受けたことでしょう。信徒がバルナバ同様の行為をしてくれたら、兼業牧師は専業が可能となり、教会の働きに専念できるかもしれません。それは、教会にとってもプラスでしょう。
 もちろん、不動産や私財の売却、遺産相続を通じて、(自らの意志で喜んで)信徒が教会に多額の献金をしてくださることは、素晴らしいことです。しかし、それを牧師があてにすることは、どうかと思っています。神様は、裕福でない信徒たちの心からのささげものを喜び用いてくださるはず。また、特定の個人の献金に、教会財政が支えられることは、教会全体の不健全化につながりやすく、好ましいことではないでしょう。
〈信徒の地道な実践に希望〉
 私は、むしろ、牧師を愛し、支える思いのある信徒たちの地道な実践に希望を見る思いがします。具体例を記しましょう。悠々自適の老後を送っていたベテラン信徒が、教会財政のひっ迫を憂えて、老体にムチ打ち、アルバイトを始めます。同様の思いで、子育てが落ち着いた専業主婦がパートを始めます。
 そして、その報酬の全額や半額が教会にささげるのです。しかも、当人はそのことを周囲に告げず、ひたすら天に宝を積んでいます。賛否はあるでしょうが、人によっては、教会にではなく直接、牧師家族にささげる方もいます。
 牧師はバルナバを期待するのではなく、牧師や教会を愛し、強いられてではなく、自主的に喜んで、こうした犠牲を払う信徒を育てるべきでしょう。堅実な牧会と教育の結果として、信徒が兼業牧師を支えたら、最高でしょう。もちろん、それが一番、難しいのでしょうが。
〈牧師だけに負担集中をさせず〉
 もちろん、金銭面だけではありません。召しや志のある信徒が、訓練を受けて信徒説教者として立つなら、定年前であれ、後であれ、神学校の信徒コースに学び、説教や牧会をサポートすれば、兼業牧師の兼業はなくならなくても、疲弊やストレスは減っていくことでしょう。
 牧師とその家族にだけ、教会存続のための負担を押し付けることがないようにと願っています。「牧師家族を生贄にしながらの教会即続」だけは、何としても避けていただきたいのです。そこに未来は見えてこないからです。
 ですから、バルナバではない信徒と牧師で、主のための労と犠牲を、分かち合っていくことの必要を痛感します。そして、そのために、牧師と役員、中心信徒が、正直なコミュニケ―ションがとれたらよいかと考えています。
〈まとめ〉
 というわけで、「牧師にパウロ求めず、信徒にバルナバ期待せず」です。これが信仰的かつ現実的で、かつ健全に、兼業牧師と信徒たちが、歩んでいく道だろうと思っています。