牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「究極の選択~人気牧師か?実力派牧師か?」

〈ルックスか?実力か?〉
 先日、明石家さんまさんが司会を務めるテレビ番組を視聴。女性アナウンサーの大御所である安藤優子さんや人気の女性アナウンサーたちも加わってのトーク。
 昔は「美人アナウンサー」という言葉もなく、自分もそう呼ばれたことがないという安藤さん。一人の女性アナウンサーが「それは安藤さんの美しさを実力が上回っていたから」と解説。安藤さんも、それなりに納得の表情。
 さんまさんも、同様のエピソードを披露。それは、大竹しのぶさんのこと。時に、自分の記事が掲載された週刊誌を床に投げつけて激怒していたとのこと。理由は、週刊誌はいつも大竹さんを「演技派女優」と書くから。「美人女優」と書かないことを怒っていたとのこと。大竹さんの場合も、美しさを実力が上回っていたというのが、事実だろうと思うのですが、当人はそのようには受け止められなかったのでしょう。
〈人気か?実力か?〉
 そこで考えたのが「究極の選択~人気牧師か?実力派牧師か?」
 まず、思ったのは、人気牧師は楽しそうだということ。実力の有無に関係なく、教会員や信徒から慕われるから、正直なところ、牧会も働きも楽で、交わりも楽しいだろう。牧師と信徒の関係が平和なのは、ありがたい。
 でも、それが牧師と信徒の本当の信頼関係ではないし、共に労することにもつながるとは限らない。教会は比較的平和だろうが、信徒が成長し、教会が建て上げられていくとは、限らない。何より教会が牧師のファンクラブ体質になるのは不健全。
 では、実力派牧師はどうか?実力があるのだから、本来、目指すべき牧師像だろう。しかし、優れた説教者や牧会者であること、聖書的な教会形成者であること、神学的に優れていることが、必ずしも教会員からの評価につながるわけではない。「無冠の帝王牧師」「信徒に評価されない有能牧師」は少なくない。
 生身の人間同士が信頼関係を築けるかどうか?不必要な誤解を防ぎ、摩擦を避けられるかは、現実面として極めて大切。力量も大切だが、人間関係に反映される牧師当人の人格、牧師の愛し仕える姿勢。それらを信徒はじっくりと観察し、的確に判断しているように思える。健全な信徒の多くは、牧師の力量は評価できなくても、牧師の人格面は、評価できるもの。
〈自分なりの回答〉
 人気牧師も、実力を付けなければ、本当の意味で実を結ぶことはできないだろうし、実力派牧師も、愛と人格が伴わなければ、その実力は宝の持ち腐れとなりかねない。人気牧師でなくていいから、実力をつける努力は怠らず、何より、キリストに似せられてゆき、信徒を真実に愛し仕え、信頼関係を構築できることかなと思った。
「人気牧師か?実力派牧師か?」
その究極の選択は、返答すべきではない。
問いかけ自体に、実質的な意味がない
それが私の結論。
「人気牧師か?実力派牧師か?」
このほぼ無意味な究極の選択
牧師たちはどう受け止めのだろう
信徒の立場からは、どう思うのだろう