牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「牧師はボスか?リーダーか?闇落ちか?」

 一昨日は「ホンマでっか!?TV」を視聴。テーマはグループ内の不満などで、組織論が論じられておりました。その中で一人のコメンテーターの発言が興味深かったです。
「ボスとリーダーは違う!」
「ボス」は「俺について来い」というタイプで、自分が決定して、トップダウン
「リーダー」は、今どきは「サーバントリーダー」で部下に仕え活かすタイプで、決定も複数でするとのこと
 この用語の「定義」を、教会に当てはめるなら、昭和の牧師の多くは「ボス」で、令和をこれから歩んでいく牧師の多くは「リーダー」
 聖書から、リーダーは神が立てた権威であることが強調され、教会のヴィジョンはそのリーダーにのみ与えられ、信徒はフォロワーとして、リーダーの権威を認め、トップダウンで降りてくるリーダーの意向に従い、そのビジョンの実現に貢献するというもの。昭和の時代、日本では会衆政治の教会でも、これが標準でした。
 これはまさに「ボス」。リーダーが有能でカリスマ性があったりすると、教会には次々人が集まります。目に見える結果があれば、さらに信徒励みます。その結果、教会の規模は大きくなることに。ワンマンでトップダウンはリーダーが有能なら、非常に効率がよいのです。(逆にそうでないとリーダーの欠点がそのまま教会に反映)昭和の頃は、これが「成功」と評価され、牧師は著名となり、ご活躍。
 しかし、信徒は聖書から自分で考えないので、信仰的に成熟しません。主体性がなく、依存的なままで終わっていくことも。大規模で有名になったけど、実態としては、教会が建て上げられていないケースも。こうした「ボス」のようなリーダーシップが、特に旧約聖書のリーダーがモデル化され、聖書的と正当化され、信徒もそれが聖書的と信じて、励んでいたように記憶します。
 聖書が変わることはないのですが、社会は変わります。日本に暮らす人々の精神性も大きく変化。高校野球の監督で、昭和から平成まで活躍した方は、モデルチェンジ。体罰が常習的でワンマンだった鬼監督が、生徒と対話し、生徒に考えさせ、野球を楽しみながら、強豪チームを作る監督へと大変身し、甲子園に出てきます。
 開拓から教会を導いてきたものの、近年になり、リーダーシップの行き詰まりを覚えている牧師は少なくないのでは?高校野球の名監督のような変身ができず、昔ながらのリーダーシップで次世代を失っている昭和型の牧師も。
 正しい権威は尊重されるべきですが、「権威主義」はよくありません。多くの有名牧師たちのスキャンダルや逸脱行為を受けてのことなのでしょう。平成になると、リーダーが持つ「闇の部分」にも、ようやく光が当てられます。とりわけ「リーダーシップのダークサイド」という書物も訳されて出版。聖書自身が記すリーダーの闇を示し、今日のリーダーとフォロワーに警告と指針を与えます。
 今は、サーバントリーダーシップが、ビジネスの世界でもキリスト教会も普及している様子。神様から付与された権威は、支配するためでなく仕えるため、また、模範を示すためであることは聖書に明記。昭和には、この点が、見過ごされてきたのだろうと思い返しています。
 逆に今は、聖書的な権威の行使さえ、嫌悪され、それが、教会の秩序や、正常な牧会指導、さらに、神の業の前進を妨げている面もあるように感じます。信徒の肉性が聖書でなく、この世の価値観によって正当化され、リーダーをコントロールしているケースも少なくないだろうと危惧しています。
 信徒の側が聖書的で、健全なリーダーシップ、あるいは聖書的なフォロワーシップを心得ていなければ、牧師が「ボス」であろうが「リーダー」であろうが、違う形でマイナスが生じるのでしょう。
 昭和は「ボス」が、聖書的とされたものです。平成に移り、カルトや不祥事が表面化すると「リーダーシップの闇」が聖書から示されるようになりました。そして、昨今は、日本社会の精神性の変化を受けてのことでしょうか。「サーバントリーダーシップ」へと移行。それぞれが、一定、聖書的なのでしょう。
 そうした移り変わりも、必然的な変化でしょう。一方で、ビジネスの世界での変化に教会が「同期」して、それを「聖書で後付け」しているとしたら、それは残念に思うわけです。そのあたりはどうなんでしょうね?これは、不勉強な私の素朴な疑問。
 聖書が示すリーダーシップには多様性があるでしょう。また、牧師にはタイプがあり、特定のリーダーシップを要求されても無理な場合も多いのが事実。
 聖書の明確だけれども、多面的で、多様性を認めるガイドライン自体を心得て歩むことかなと個人的には考えています。大切なことは、牧師自身だけでなく、教会役員など中心信徒はこうしたことを学び、牧師が権威の面で健全に歩むために支えること。これは、聖書的なフォロワーシップの一つだろうと考えています。こうした信徒側の成熟が、牧師の健全で実効力のあるリーダーシップを支えるのではないでしょうか。
「ボスとリーダーは違う」からの「牧師はボスか?リーダーか?闇落ちか?」
「ホンマでっか!?TV」で聴いた言葉から、そんなことを考えました。