牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「牧妻と牧夫、似ているようで大違い③」

〈一女性牧師から教えられる〉
 一昨日の投稿を読んだ該当者でもある一女性牧師が、ご自身が仕える教会での現状を伝えてくださいました。それによれば、信徒たちは、「牧夫」に対しては、「奥様をよく支えておられて」など、労いや賞賛の言葉をよく受けているのだとか。それに比して、自分はそうではないとのこと。
 もちろん、この女性牧師は自分にそれらがないことを不満に思っているのではありません。多分、この牧師が問題と感じているのは、この差異が「牧師とその配偶者」の違いではなく「男女」の違いに起因していること。言い換えれば、男性であれば、当人が牧師であれ、牧師である妻の夫であれ、労いと賞賛を信徒から受けて、女性であれば、牧師でも牧師夫人でも、夫に比べて、信徒から尊重されることがないわけです。
〈背景にある教会文化〉
 この女性牧師の所属団体には、女性が男性を上手に立てて、プライドを傷つけることなく接する文化が強くあるようです。その文化が強いので、「女性は男性を立ててブライドを傷つけない」ことが、対象男性が「牧師か女性牧師の夫かの違い」を超えて、優先しているのだろうと私は想像します。こうなると、牧師夫人であろうが、女性牧師であろうが、その方は「女性であるが故に」夫より、かなり尊重されないというおかしな現象が起こります。
 このことの根底には「男は仕事、女は家庭」「男性がリーダー、女性はフォロアー」のような昭和的ジェンダーバイアスの根強い名残りを感じます。さらに、言えばそれを教会内に作り出したのは、主に昭和の男性牧師たちでしょう。個人的にはそんな失礼で、かつ自己反省的な考察をしています。
〈昭和的性役割と聖書理解〉
 特に高度経済成長期に同期して、教勢を伸ばしたいわゆる福音派は、経済発展に都合のよい高度経済期の男女の性役割モデルを、教勢拡大のために、教会に当てはめてきたのでは?と思うわけです。これは以前にも、何度も記してきたことです。
 「男性は外で働き献金、教会ではリーダーで活躍」「女性は結婚して退職、出産して信仰継承、専業主婦で平日は奉仕と祈り」。世の中と同じ経済効率のよい性役割を、聖書の言葉によって、権威付けてきた面もなきしもあらず。
 男女の「相互補完性」あるいは「相互尊重性」を示すのでなく、男女を「主従関係」として位置付けるように聖書の言葉を教えてきた面があるのではないか?と思うのです。また、男尊女卑的社会という背景を持つ聖書の言葉を、無思慮なまでに背景と切り離して、普遍性のあるものとすることもあったように記憶します。
 多くの男性牧師も、それを聖書的と信じて信徒に伝え、妻には「そうした牧師夫人の在り方」を求めてきた面があったように観察しています。牧師夫人自身も、信徒が願う以上に、自分自身をその枠組みや自己理想に当てはめようとして、自分で自分を苦しめてきた面もあったのではないでしょうか。
〈牧夫を切り口に考えたい〉
 私が存じ上げている「牧夫」事例のほとんどは、女性牧師がここ10年以内に結婚した30代や40代の方というもの。2例のみ、既婚者であった女性が教職になっています。私の知る8事例のすべては、ここ10年以内に始まったものです。
 ジェンダーについての考え方は、社会だけでなく、キリスト教会においても、大きく変わりつつあります。多くの団体が女性教職を認め始めたり、これまでにあった女性への制限を撤廃したりです。その中で、「女性牧師と信徒である夫」がごく少数ながら増加しています。
 そこで、今回とりあげた「牧妻と牧夫、似ているようで大違い」という不可解な現象を通じて、聖書が記す性役割を改めて考えてみてはどうでしょう?それを通じて、女性牧師であれ、牧師夫人であれ、教会内で、理不尽な状況に置かれやすい女性が、少しでも、不当な束縛から解放され、主にある自分らしさに歩んでいただければと願ってやみません。