牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「兼業牧師について考える⑦~専業牧師至上主義の根拠は聖書?」

〈聖書というより武士道の美学?〉
 日本の牧師観、教職者観の一部には、聖書とは別の価値観が強く反映しているように感じています。例えば、「生涯現役」を願う牧師がいらっしゃします。その根拠となる聖句として、よく「 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」(ローマ11:29)があげられます。でも、これは文脈上、教職者を含む一般論ではないだろうと個人的には思っています。
 聖書は、レビ人の隠退年齢は記していますが、祭司については言及がないようです。引退の是非は、どうも、はっきりしません。ただ、牧師の「生涯現役願望」は、聖書よりも、武士道の美学から来ているのでは?と疑っています。
 かつて昭和の伝道者から時にお聞きした、「最期は、講壇で倒れて息を引き取りたい」などもそうでしょう。これは、ぜひとも、やめていただきたいもの。大切な礼拝は中断され、台無しに。名誉の死どころか、事故死扱いとなり、教会は結構な迷惑。最後は、病室で家族や信徒に見送られて迎えていただきたいです。
 そもそも聖書に殉教者はいても、礼拝説教中に他界した事例はあっただろうかと考えます。これもまた、聖書に根拠があるというより武士道の美学に由来するのではないでしょうか?武士道の美学が、「高齢者にありがちな執着心」を正当化し、「退くべきことを認められない肉性」を美化しているのではないかとすら思えてしまいます。
〈専業牧師至上主義も?〉
 ここでようやく、本題です。今回のシリーズを書きながら、「専業牧師至上主義」も同様だろうと考えるようになりました。「専業牧師至上主義」とは、専業牧師を、牧師の本来あるべき姿として、そうではない在り方は、それに到達しない劣った在り方のように評価する価値観です。
 「君主に仕え、禄(給与のこと)をいただき、それで生計を立てるのが、武士の本分、副業はまかりならん。」この武士の本分は、「教会に仕え、謝儀をいただき、それで生計を立てるのが、牧師の本分、副業、兼業はまかりならん」という教職者観に重なります。それは、聖書的教職者観というより武士道的教職者観なのかも。
 武士が浪人となり、傘はりなどして、生計を立てているのは、情けない姿で、当人にとって屈辱的であったに違いありません。兼業牧師を、劣る存在として見る傾向、理想形に至らない不完全な在り方と評価する背景には、こうした武士道的価値観があるのかもしれません。
「武士は食わねど高楊枝」と言いますが、それは、「貧しく生活の必要が満たされなくても、牧師たるもの誇りを持て!兼業、副業はならぬ」と似ているように私には思えます。
〈私なりのまとめ〉
 私自身、専業牧師は、働きに専念できるという意味で、理想形の一つだと考えています。しかし、牧師のおかれた状況には多様性があり、兼業にもプラス面があることを考慮すれば、「置かれたところで自己ベストの在り方でいいのでは?」と思えてきます。
 かつては牧師や牧師夫妻の兼業を禁止すること、制限をすることが、「本来の働きへの専念」に結び付いたのでしょう。しかし、今は、そのような禁止や制限が、逆に「本来の働きもできない状況」を作り出しかねないのではないかと心配です。
 聖書に明確な根拠があることなら、普遍性を持つものとして、指針や基準とされるべきでしょう。しかし、私は、専業牧師至上主義は、聖書でなく武士道を根拠としているように思えます。牧師の兼業化については、状況に応じて、柔軟に考えるべきだろうという見解です。
 基準は、聖書か武士道か?動機は、愛か欲か?目的は、御業の前進か自己満足か?そのあたりが判断材料になるかのではないでしょうか?