牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「兼業牧師について考える④~牧師の経済事情は他人事?」

〈それは信徒の責任?〉
 某団体所属の牧師の就任式に3度お邪魔したことがあります。3回とも教会員たちが約束の宣言をしていました。それは「私たちは○○牧師とその家族に対して心身ともに、その必要を満たすことを約束します」という内容。これは、「牧師招聘」に際しての「信徒側の責任」を遂行する約束なのでしょう。
 これは各個教会が尊重され、信徒の主体性が重んじられるこの団体ならではかも。でも、思うのです。招聘性か任命制かに関係なく、教会政治の形態とは関係なく、信徒にはこうした「責任意識」は一定必要だろうと。
 なぜなら、信徒各自はキリストのからだの一器官だから。一器官が体全体に対して、一定の関心や責任を持つのは聖書が記す神様のみこころだから。そして、牧師の給与(謝儀)は、会計報告や総会資料に記載されるように、教会においては、公的なことだから。
 もちろん、現実問題として、責任を果たせないことも。信徒の経済状況も高度経済成長期とは激変。高齢化により年金生活者の割合も激増。礼拝者数も減少傾向にある教会が多いのが現状。責任を果たしたくても果たせない現実はあります。だから、牧師の兼業化が進むわけです。
〈今回考えたいこと〉
 今回、考えたいのは、「責任を果たせない現実」ではなく、時にお見受けする「責任を果たす気がない現実」です。もしくはその原因である「責任意識の欠如」「教会の一器官としての自覚の欠如」です。さらに根底にあるのは、「聖書的教職者観、教会論の不在」「教会教育の不備、不毛」でしょう。
 具体的に言えば、信徒が牧師の経済的必要について、「牧師自身で何とかすべき」あるいは「団体が何とかしてくれる」と思っていること。「信徒の責任」「教会としての課題」と思っていないこと。つまり、教会員の「他人事感」です。
 もちろん、牧師への敬意から経済への言及を失礼と考える愛の配慮をされる方もおおいでしょう。ですから、すべてを無思慮な他人事感覚でまとめてはならないでしょう。あくまで、「愛のなき他人事感」を問題視しています。
〈時代の変化の中で〉
 ひと昔、いいえ、ふた昔前には、一部に「俺たちが牧師を食わせてやってる」と言わんばかりの態度の信徒がいました。実際にそうした発言をする残念な信徒も。牧師が、神が立てた器でも、教会として招聘した教職者でもなく、「雇われ店長」のように扱われることも。今でもごく一部にはあるでしょう。
 今や、時代が変わり「食わせてやってる」と言えない状況に。そうなれば、自分の責任を省みることなく、今度は「牧師自身で何とかしろ」「信仰でやってゆけ」に。中には「好きでやってるんだから、自分でなんとかしろ」と牧師職を趣味道楽かのように言う信徒までいます。そこまで言われて、耐えている牧師夫妻はすごいと思います。
 聖書の指針も信仰的根拠もないので、「両極端」なのです。「食わせてやっている」か「自分で何とかしろ」の二つだけなのです。諸教会の役員やベテラン中心信徒には、そんな残念な方々も少なくない現状を見聞きし、心を痛めています。
〈根底にある課題〉
 昭和の教会は献金については教育指導してきましたが、それを思い返しています。献金のほとんどが、牧師家族の生活を支え、会堂の費用や返済に用いられることが多いのが現実ですから、信徒は聖書的動機や根拠を教育されなければ、「会費」「出資」「維持協力金」「牧師家庭支援金」という意識になりがち。
 そうなれば、前に記した両極端に走るのも必然でしょう。「食わせてやってる」との「雇用意識」も「自分でなんとかしろ」という「責任放棄、他人事感」も、同じ根を持っているように思えるのです。
 さらに考えていくと行き着いたのは、信徒の責任ではなく、牧師側の責任。牧師の経済と献金の根底にあるはずの「聖書的教職者観」や「聖書的教会論」をないがしろにしてこなかったか?聖書から、それらを語り、教育してきたか?「信徒はそんなことは知らなくていい。ただ忠実に献金すればいい」というような歩みをしてこなかったか?ある意味での「愚民政策」をしてこなかったか?自戒を込めて、昭和の教会のありようを振り返っています。