牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「何のための牧師?②~目的の喪失と再発見」

〈ざっくり解説〉
 牧師など教職者がキリストによって立てられている目的を、エペソ4:12にはこう明言。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」
 そこで、「整える」「奉仕の働き」「キリストの体を建て上げる」とは何を意味するのか?具体的に何を意味するのか?意味の確定が必要になってきます。原語や文脈や歴史的背景から、確定しようとしても、この箇所はある程度、見解が分かれています。以下、かなりざっくりと私なりの理解を記してみます。
 まずは、エペソ4章の文脈は、教会論。教会における御霊の一致が語られ、同時に賜物と役割の多様性が語られる中でのこの12節です。いわゆる「多様性における一致」による教会形成が記されており、その一部として、様々なタイプの教職が立てられた目的を示しているのが12節だろうと考えています。ですから、教職論ではありますが、あくまで教会論の一部という位置づけが大切かと。牧師も多様性と一致の中に位置づけられるのでしょう。
〈「整える」、「奉仕の働き」とは?〉
「整える」は、特別な用語で原義は「あるべき状態に戻す」ことだそうです。キリストのからだの一器官としてのあるべき状態にすること。また、その目的は、次に来る「奉仕の働き」のためですから、他者に仕えるため。ですから、「整える」とは具体的には、そのための教育や支援でしょう。
 奉仕と訳されている言葉は「ディアコニア」で、元来の意味は「給仕」だそうで、昨日いただいたコメントで知ったのですが、英語では“Ministry”と訳されています。日本語の「奉仕」とはニュアンスが違うのでしょうが、私には別の適切な訳語が見つかりません。根本に「仕える」の意味があるので、「奉仕」との訳語なのでしょう。
 ただ、狭義での「教会奉仕」ではないように思います。文脈上、御霊の一致の中で愛をもって兄弟姉妹に仕えるのですから、「活動としての奉仕」だけではないでしょう。「施し」などの愛の業、「傾聴、慰め、励まし」のような信徒間の牧会も含まれるだろうと考えています。また、散らされた教会まで視野に入れるなら、さらに「奉仕の働き」の範囲は広がるのかもしれません。
 
 「整える」とは、スポーツにたとえるならチームプレイのできる選手に育てることと言えるのでは。自分を活かすより他者を活かすための賜物の行使。自己実現や自己承認欲求充足でなく、他者を活かし教会を建て上げるための奉仕。自分のための他者より他者のための自分。自分のためのキリストでなく、キリストのための自分。チームの勝利に貢献するための個人。そして、そこにこそ、クリスチャン個人としての本当の喜びも満たしもあるのでは。
 
 そのような「教会論的御心のクリスチャン像」を聖書から示し、信徒に理解と自覚を与え、それに向けて教育し、それへの成長を支援していくのが、牧師の本分だと思うわけです。それは「弟子化」と呼ばれたり、「信徒としての献身」と称されたりします。中には、「そうした用語自体が不要、そもそも普通の信徒教会が弟子としての歩み、献身の歩み目指しているのだから」と主張される牧師も。
〈キリストのからだを建て上げるとは?〉
 「キリストのからだを建て上げる」の方もざっくりと私なりに解説。その具体的内容は13節から16節。特に13節がそれを説明しているようです。
「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」
 
 これは、乱暴なまでざっくり言えば、「一致」「成熟」「完成」です。続く14節では、否定的な面から「教えの風に振り回されない」ことが警告され、15,16節は、一致と完成に向けての成熟について新たに「愛」という動機、原理が示されています。
以上、聖書解釈や神学的考察自体が目的ではないので、ざっくり解説でおゆるしを。
〈近くの目的と遠くの目的〉
 今回、考えたいことは、12節が持つ「近くの目的」と「遠くの目的」について。12節について、多くの方が指摘するのは「遠近二つの目的」。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」は、今すぐ果たすべき直近の目的。それに対して「キリストのからだを建て上げるため」はそこに向けて、前進していく遠くにある目的。
 
 つまり、「完成形の理想」を遠くに思い描きながら、「現場での本分を果たす」ことかと思うわけです。イメージとしては登山。はるか彼方に山頂を仰ぎ見ながら、登山チームとして、次の休憩所を目指し、登山者を励まし、助け合いながら一歩ずつ前進するのです。そうして、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」を実行しながら、13節が示すような一致、成熟、完成に、一歩でも、1ミリでも近づけることが、牧師がキリストによって立てられている目的。
 
 時々、牧師からお聞きするのは、「教会を建て上げるなんて夢のまた夢」とのお嘆きの声。そうした現状は残念ですが、「教会を建て上げること」が果てしなく遠く感じることは、それほど、嘆くべきことでもないのでは?なぜなら、それは、遠い目的で、しかも完成形の理想だから。むしろ、近い目的である「聖徒を整え、奉仕の働きをさせ」が、はるか遠くに思えたら問題。牧師の本分として聖書が明記していることができていないのですから。
〈迷走、葛藤の由来は?〉
 「牧師としてどうすればいいのかわからない」ではなく「牧師は何をするのかわからない」
「どう、群れを導いていけばよいかわらかない」ではなく「何を目指すのかわからない」
 聖書が一定示していることについて、そんな声を耳にします。こうした牧師の迷走、葛藤はどこに由来するのでしょう?
 
そもそも聖書が明記する牧師の目的を知らないこと、
知っていたけど、いつのまにか見失っていること、
知っているけど、実行できないこと
実行したくてもさせてもらえないこと
実行できないと諦めてしまっていること
その結果、別のことをしてきたこと
 
つまり、目的に対しての無知、逸脱、不本意な不実行
言い換えれば、牧師自身が御言葉に歩めないでいること
あるいは、状況や他者を理由に歩もうとしないこと
〈小さな提言、大きなお世話〉
そこで、私なりの「小さな提言、大きなお世話」
牧師自身が聖徒を整える前に
自らを整えてみてはどうでしょう
ご自身を「あるべき状態」に戻してみては
 
牧師も聖徒の一人なのですから
牧師自身が奉仕の働きのために
聖徒を整え奉仕の働きをさせるため
目的達成にふさわしく自らを整えてみては
そして、遠くの目的をはるかかなたに臨みながら、
牧会現場で近くの目的を日々、果たして行きましょう
 
それが、キリストのからだを建て上げていくのでしょうから
15節にある「愛をもって真理を語り」は牧師も同様
愛をもって聖書から「教会論」の真理を語りましょう
不評でも、信徒に嫌われても、関係悪化を恐れずに
心情と境遇に配慮して、語らないことこそ愛に反するのでは?
 
牧師自身が信徒を愛し、教会論という真理を語りたいもの
何度繰り返し語っても、教会は変わらないと諦めず
御言葉の力、共に働くご聖霊に信頼して
御言葉に真摯に応答する信徒の存在を信じて
とは言え、教会論を聖書から語るのは、容易ではないこと
信徒だけでなく、自分のことも諦めず、語れる自分に
自らも伝わる言葉で正しく伝えられるよう研鑽を重ねながら
 
語りましょう。信徒を愛し
語りましょう。教会論を
教会論的、御心のクリスチャン像を
大きなお世話とは思いますが、小さな提言がお役に立てば、感謝。