親子関係、子育て

「親を愛せない問題を青木さやかさんに学ぶ」

〈青木さやかさんと毒親問題〉
 今朝はNHKの番組に青木さやかさんが、登場。全部ではありませんが、視聴しました。最近は、青木さんをネットやテレビで見かけるのは、お笑いではなく、母親との関係についてのこと。「毒親に苦しめられ続ける大人となった子ども」として、葛藤を覚えながら母親を介護する姿と言葉は、大きな反響を呼んでいます。
 「毒親」という言葉は、ある種の発明でしょう。この言葉だけで、自分の親子関係を客観視し、自分の問題に向き合えるようになった人々は少なくありません。好ましい言葉ではないでしょうが、親の犠牲者となった子どもたちには、光を与える言葉になっているのでしょう。
 一方を教会に目を向ければ、救われても、親を愛せずに苦しむクリスチャン、親子関係に起因する課題を抱え続けるクリスチャンは少なくありません。未信者家族から、救われてきた方々の中には、不幸な親子関係の中での得られなかった愛の渇仰から、神の愛に出会った方の多さは実感します。
〈キリスト教会でも〉
 毒親はクリスチャンも例外ではありません。旧約聖書の信仰リーダーであった父親の何名かは、毒親該当者だと私は考えています。現代の日本のキリスト教会に集う親たちも例外ではありません。役員など中心的な信徒、牧師夫妻であるケースも見聞きしてきました。その中で苦しむ子どもたち、既に大人となっている子どもたちの声にどれだけ心を痛めてきたかわかりません。
 最近は青木さんのように、愛せない血のつなった親の介護をしながら、苦しむクリスチャンたちの声、将来、介護することを考え葛藤を覚えるクリスチャンたちの声をお聞きするようになりました。
 昔は、田中哲先生の著書などを読んで、自分なりに学び、理解に努めてきましたが、毒親なる用語の普及後は、一般の発信でも、役立つ情報に触れることが多くなりました。青木さやかさんの関連記事は、わかりやすく役立つと思うので、コメント欄にリンクを貼り付けて、紹介しておきます。
〈三つの現状分析と考察〉
 この件については、教会の中で、あまりに理不尽なことが多いので、今回は、私なり三つほど厳しめの現状分析をさせていただき、少しだけ考察を加えます。
(1)「聖書と信仰」によって権威づけられる毒親たち
 毒親の一典型は、子どもへの過干渉。親が子どもについてのすべてを決めて、従わせること。それが、子どもの主体性を奪い、自立を妨げ、不健全に子どもを歪めてしてしまうこと。一般の毒親は、自分になりに子どもを愛し、「子どものため」と信じて、自己決定と自分の価値観を押し付けて子どもを歪めます。
 しかし、困ったことに、クリスチャンの場合は、それに信仰が権威付けを与えてしまいます。聖書は、子どもに親に従うようにと親に権威を委譲しています。子どもも神の権威で親に従うべきと思ってしまいます。さらに、親は自分の判断と価値観を聖書に由来する信仰的なものと信じて、子どもに押し付けます。
 まさに信仰と聖書によって権威づけられているので、一般の親以上に 「正しい内容で愛を動機としているから間違いない」ととんでもない確信をもってしまいます。親がこうしたクリスチャンですと、思春期以降に、子どもたちに様々な歪みや課題が発生するのはある意味必然。
(2)「無知+家族愛原理主義」でさらに当人を苦しめるクリスチャンたち
 こうした親に苦しめられて大人になったクリスチャンたちが、周囲から暖かな理解を受けて、支えられたらよいのですが、そうは、行かないのが現状です。この課題についての「無知」と「家族愛原理主義」によって、当事者は教会の交わりの中で苦しめられます。
 「親を愛しなさい」「親を扶養することは神の命令」「嫌いな親でも愛するべき」「愛すれば、親は変わる」「親の救いのために」など、聖書的正論を言われて、親を愛せない自分を責めます。周囲のクリスチャンたちは、愛を要求する一方で、「当事者の心情を理解しようという愛の実行」はしないのです。
 特にクリスチャンである夫や牧師から、憎しみを抱く親の介護をすべきだと言われ苦悩するクリスチャン女性、また、それに反論せず、自分を責め続けて、苦しんでいるクリスチャン女性の事例は多く見聞きします。まさに「教会版・青木さやか姉妹」です。
 本来、教会の交わりで、理解され、癒されて行くはずが、逆に「愛なき聖書的正論」で責められ、追い詰められているケースは少なくありません。ただでさえ、親子関係で苦しみ、それが生きていくことのつらさにもつながっているのに、これは、あんまりではないでしょうか?、
(3)「愛をもって真理」を語りづらい指導者
 教会の指導者たちは、賢明であれば、「クリスチャン毒親」に気が付きます。しかし、賢明であるからこそ、すぐにそれを親に指摘しません。認めないことが容易に予想できるからです。子どもの不登校、あるいは過食、過食、心の病などを発症しても、自分が原因と考えないクリスチャンの親は少なくありません。(1)に記したことが要因となり、自覚と悔い改めを妨げているのでしょう。
 指導者は、本来は聖書に「愛をもって真理を語り」(エペソ4:15)とある通りなのでしょう。しかし、下手に指摘をすると、信徒は逆切れして、関係が壊れてしまいます。教会を変わることもあります。そうなると運命共同体である子どもを守ることができません。また、親が教会を支える中心信徒であれば、教会の存続と牧師家庭の生活にも影響するので、肉的な打算も頭をよぎるのかもしれません。
 ですから、「祈るしかできませんね」となり、親が自分で気が付くのを待たざるを得なくなります。しかし、そうしている間にも、子どもは歪みを受けながら成長します。親たちは、子どもを生贄にしながら、クリスチャン生活を継続していくのです。
 最終的にそうした親の下で、子どもが犠牲になり、重大な課題を抱えた大人になるとしたら、どうでしょうか?あるいは、犠牲とならないため、子どもが、親を離れ同時に神様を離れるとしたら、どうでしょうか?それは、牧会として、結果に関係なく「正解」なのでしょうか?それとも、問題解決を先送りにした「不正解」でしょうか?
 私個人は、祈り、神様の導き中で、そうした親との「愛の対決」も必要だと考えます。子どもを守るために、成長過程のどこかで、親との決裂を覚悟で「愛をもって真理を語り」を実行すべきかと思っています。このことは、牧会者が神様の前に問われる重大な責務の一つではないでしょうか?
〈現代のモレク礼拝?〉
 私は教会の中で、クリスチャンの毒親が、子どもを生贄にしながら、教会生活を送る多くの例を見聞きしながら、思っています。
厳しい表現で恐縮ですが、
これは、「現代のモレク礼拝」ではないかと。
「神の働きや教会の利益を名目として子どもを生贄にする偶像礼拝」ではないかと。
私は悲しみを覚えながら、そう感じています。
〈まとめとアピール〉
 青木さやかさんのテレビ出演を機に、今日は、ずっと思ってきたことを記しました。
クリスチャンの親に苦しめら続けてきた子どもたちの声
大人となり、親を愛せず苦しみ、自分を責める方々の声
愛せない親の介護に苦悩するクリスチャンたちの声
 そうした声をお聞きしてきた一人として、このことは、読者の皆さんに届けたかったのです。
 どうか、該当する方々を理解し、支える一人一人であっていただきたいと願います。今、親の生贄となっている子どもたちを守る牧会や教会の交わりをと願います。