教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも⑧~礼拝と伝道の両立」

〈具体的方法として〉
 「礼拝は伝道の場か?」「礼拝と伝道の両立」「礼拝学的視点と宣教学的視点の対立」など、唯一の正解などないように個人的は考えています。それぞれの教会で、信徒や地域の現状に応じて、また、教会としての理念に沿って、祈り、導きを求め、話し合い考えて、実行していくべきことでしょう。今回は、前向きに具体的なことを記してみます。
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〈伝道礼拝、説教に依存し過ぎず〉
 たとえば、月に一度、主日礼拝を伝道礼拝と位置付けて、未信者中心的な対象としてのメッセージが語られる教会は少なからずあります。教会員もそこに向けて、祈り、備え、家族や知人友人をお連れできます。また、クリスチャンが、伝道説教を聞くことは、十分意味のあることで、それは、多くの方が経験し実感していることでしょう。
 説教は大切ですが、すべてではありません。説教は理解困難でも、礼拝の賛美、祈り、礼拝者の真摯な姿などに何かを感じて、真剣に求道をし始める方もいます。教会学校にだけ参加する子どもの親が、救われていくこともあります。
 何より、「教会の交わりに愛が実感できるかどうか?」「クリスチャンは他の人と何か違うと思っていただけるか?」は、実はかなりの比重があるように思うのですが、どうでしょう?前々回に記したことですが、礼拝説教の理解と応答だけが救いへの道ではありません。
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〈いつもの説教を伝道説教に〉
 さらには、未信者をお連れした方や歓迎する信徒たちは、礼拝説教を補うことができます。牧師に代わって、未信者の理解できなかった部分を補足して差し上げるのです。伝道礼拝でない説教であっても、その内容も、聖書の価値観、福音の本質を、未信者に分かるよう伝えるなら、それは伝道的な機能を十分果たすと思うのです。
 自分自身を振り返っても、最初の頃は、礼拝説教自体は理解困難でした。しかし、礼拝後の交わりで身近な青年たちが、フォローをしてくださいました。その愛の労に支えられて、福音理解が深まり、救いに向けて前進できました。そうです。信徒は牧師の「いつもの説教を伝道説教」にできるのです!
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〈説教者と信徒がチームとなって〉
 その意味で、牧師の礼拝説教さえ、「伝道」という現場にあっては、チームプレイだと思うのです。野球で言えば、牧師の礼拝説教は先発で、信徒のフォローがリリーフなのです。
 「牧師の説教が理解できて、未信者が救われる」という「一対一」ではなく、「牧師の説教を教会が用いて、未信者が救われる」という「教会対一人」という関係で、人は救われていくのでしょう。
 牧師も自分の説教で、決心に導こうとするより、そうしたチームワークで働きけるように信徒に意識づけること、そのための人材育成をすることが、より豊かな救霊の実につながるのではないでしょうか。教会に集っている未信者の救いを願う信徒は「説教の聴き手」で終わってはならないでしょう。「説教のフォローアップ担当者」のような意識を持ってはどうでしょうか。とりわけベテラン信徒や成熟した信徒は、「通常の説教を伝道説教に」との意識で、伝道に取り組まれたら、実を結ぶことでしょう。
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〈まとめとお礼〉
 8回にわたるシリーズにお付き合いいただき、感謝するばかり。「ありがちな課題なのに、タブー視されがち」で、あまり語られないテーマにあえて挑戦しました。かなり、乱暴で偏った面もあったでしょう。
 牧師や説教者の公開処刑になっていたら、申し訳ありません。信徒の実情や感情に十分寄り添えていなかったら、それも御赦しを。でも、苦悩しながら、断絶している牧師と信徒、双方の現実を、嫌というほど見聞きしてきた一人として、勇気をもって記してみました。拙いシリーズが、克服のきっかけや突破口の一つになればと願ってやみません。