教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「2、30年の慣習は伝統なの?」

ある40代の牧師から、以前、お聞きした話。
 その方の牧する教会は、信仰継承で実を結び、20代の青年も多いと聞きます。実を結ぶ若手牧師には、ありがちなことでしょうが、どうも、教会や教団において、変えるべきことが変えられない現実に葛藤を覚えておられる様子。
 
 その時、彼が私に語ってくれたのは、先輩牧師から教えてもらったというこの言葉。
「2,300年の伝統を変えるのは、簡単だが,
 2,30年の伝統を変えるのは、難しい。」
 
 うーん、これは「教会あるある」「教団あるある」ではないでしょうか?数百年経過して、時代や社会の変化の中で、意味をなさなくなった伝統は、神様の業を妨げるのが明らかとなれば、皆さんが合意して、変更することになるもの。
 
 しかし、2,30年の伝統はそうはいきません。理由は簡単。伝統創始者の皆さんとそれを忖度する方々が「ご存命」だからです。
 たった数十年の変化の中で、意味をなさなくなっているのに、その伝統形成にかかわった方々は、事実を認めようとしません。それどころか、その伝統とやらが神の業を妨げているとの正しい指摘には、猛反発や逆切れすることも。
 中には、伝統文化の保存が信仰のアイデンティティーとなってしまっている方も。心情的ノスタルジーから、過去の成功体験の再現を信仰を名目に求め続け、変えることやめることを「不信仰」と評価し、神様の業を留めているご自分が見えていないケースも。
 
 私は、この言葉を聞いた時、思ったのです。
「そもそも、2,30年程度続いたものを『伝統』と呼んでいいのか?」と。
 伝統とは世代を超えて、形成され、継承されてこそ、成立するもの。次世代を超えて次々世代にも、価値が認められ、継承されていくのが、伝統でしょう。
 逆に言えば、世代の壁を超えるというテストに合格してもいない「教会の慣例や文化」を「伝統」と称し、次世代に継承させようとするのは、どうかと思うわけです。
 教会や団体の中心的理念や教理、創立時のスピリットなどなら、いいのです。そうでなくて、数十年継続しただけの慣習や文化は、違うでしょう。それは、まだ、「伝統資格取得試験のテスト中」なのであって、伝統ではないはず。
 
 私は教会形成や宣教のとりあえずの評価は三世代目に現れると考えています。三世代目が教会の中心を担うステージに達した時に、初めて評価できると思っているわけです。その意味で、「創立、100年に満たない教会や団体に伝統などあるのだろうか」と思ってしまいます。それを伝統と呼ぶなら、宗教改革以来、何百年の歴史を持つ伝統的教派に失礼だとすら感じます。
 
 私はこう考えています。
 そもそも100年にも満たない教会や団体に「伝統」などないのだと。
 「作る伝統」はあっても「守る伝統」などないのだと。
 次世代に継承すべき信仰や理念、スピリットはあっても、「次世代に継承させるべき伝統」はないのだと。
 
 伝統教派には立ち返るべき伝統、重んずべき伝統、変えるべき伝統があるが、100年未満の教派には、それらはないのだと。
 「2,300年の伝統を変えるのは、簡単だが,
 2,30年の伝統を変えるのは、難しい。」
 2、30年のものを「伝統」と称し、次世代に継承させようとするよりは、むしろ、伝統を作りつつあるとの自覚と誇りをもって、次世代を信頼し、未来を委ねていくのが、賢明なように思えてなりません。