教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「教会の除名は、暴力団なら破門か?絶縁か?」

〈山口組の分裂報道に触れて〉 
 山口組の分裂が連日、報道されております。テレビ報道で知って興味深く思ったのは、「破門」と「絶縁」の違いです。何でも「破門」は破門は復帰可能な処分で、「絶縁」は、不可能な処分なのだとか。処分それぞれの違いや現実に生ずる諸問題などは、こちらを読んで大いに納得しました。

「暴力団ミニ講座 13破門、絶縁、除名、除籍」
http://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini13.htm

 これによれば、破門は復帰可能であるばかりか、場合によっては期限付きで謹慎に近いケースもあったり、単なるところ払いのような例もあるようです。一方の「絶縁」は、復帰不可能の処分で、その処分は、他の組織にも知らさせるので、他の暴力団にも所属できないとのこと。堅気になるしかないのですが、報復などもあり、正常な生活はできず野垂れ死にの可能性まであるようです。こうした処分が個人でなく、上位組織である大きな組から、傘下の組に対して下されたら、抗争に発展するのも、この講座を読むと良く理解できます。

 また、この講座によれば、自分から脚を洗う「除籍」があるとのこと。当然、親分の許可が必要で、そのために指を自ら切断し、差し出すのは、よく知られていることでしょう。これを読んで、改めて、ミッションバラバのメンバーなどは、除籍だったのか?絶縁だったのか?を考えさせられます。

〈教会の除名はどちら?〉
 そこで、考えてみたことがあります。それはプロテスタント教会における「除名」は、暴力団における「破門」と「絶縁」のどちらに相当するのか?ということ。不謹慎なのか、神学的で真面目なのか不明の問い掛けであります。

 プロテスタントには「破門」という言葉はないようです。そもそもルターが破門されているからでしょうか?「除名」という言葉が用いられています。「破門」はやはりローマカトリックの教会法に定められているとのこと。

 wikipediaの「破門」は読んでみて面白過ぎました。宗教から始まり、伝統芸能、暴力団、さらには、秋元プロデュースのアイドルグループまで扱っています。

wikipediaの「破門」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E9%96%80

 カトリックの「破門」は以下の聖書箇所が根拠となっているそうです。マタイ18:15-19、Ⅰコリント5:3-6、16:22、ガラテヤ1:8,9、Ⅰテモテ1:20、テトス3:10。神学音痴の私は、よく知らないのですが、多分、プロテスタントの除名も、聖書的根拠となる箇所については、カトリックとほぼ同様かと予想します。

 この中でも、代表的なのは、マタイ18章でしょう。最終的に教会の言うことも聞き入れないなら「異邦人か取税人のように扱う」ように命じられています。この指針において大切なことは、目的や方向性でしょう。最初の段階について「もし、聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」とあるように、戒めも最終的な除名も、目的は罪を認め悔い改めて回復することであり、方向性も排除ではなく、一致なのです。最終手段とも言える「除名」は、決して「村八分」や「永久追放」ではなく、罪を認め、真実に悔い改め、悔い改めの実を結び、交わりに回復することを願ってのものなのです。

 聖書的根拠の中には、パウロが「交際禁止」「教会出入り禁止」の指導をしている記述があります。しかし、パウロは別の個所でそれが、回復のためであることを記しています。Ⅱテサロニケ3:14、15でパウロが命じた交際禁止は対象人物が「恥じ入るため」であり、「敵と見なさず兄弟として戒める」ことでした。Ⅱコリント2:5-8では、パウロは処罰後の赦しと励ましを命じ、対象人物への愛の確認を勧めています。これらから、今日、多くの教会が規則中に定めている戒規やその中の除名も、回復を願っての愛による対処であることが分かります。

 そう考えますと、プロテスタント教会における「除名」は、復帰を目指すことから、暴力団における「破門」の方に相当すると考えるのが妥当でしょう。

 もちろん、迷惑行為や犯罪行為などで、被害者が教会にいる場合には、悔い改めの実を結んでも、同じ教会に戻ることが適切でない場合もあるでしょう。その場合も、公同の教会への復帰は認められ、他教会や別団体所属の教会へ復帰することが聖書が示すみこころだろうと思います。

〈実情はどうか?〉
 「教会戒規が事実上、機能しない」「信徒を戒めることができなくなっている」などの声を時にお聞きします。そのために教会から聖さと義しさが失われ、罪や不正が放置されているとしたら、それはどんなに神様が悲しまれることでしょう。信徒が指導者や役員会による叱責や戒めを単純に「愛と赦しに反する行為」としか、評価できないとしたら、それは、全く聖書的ではありません。悲しい程、未熟な信仰理解です。聖書が、戒めどころか、除名さえも「敵でなく兄弟」と見なし、「排除でなく回復」を目的とし、「憎しみでなく愛による」対処として記していることを覚えたいものです。

 同時に戒める側にも、「兄弟か?回復か?愛か?」が問われるのは当然のことです。牧師などの指導者が、自分に異を唱える相手を敵と見なし、排除を目的として、憎しみをもって、教会として戒め、除名などをするなら、その指導者自身は、どんなに大きな裁きをやがての日に、あるいはこの世において受けることでしょう。個人感情や利害から、権威の下にいる者に対して除名や排除をするまでの権威行使をするなどは、まさに神から委託された権威の誤用乱用に他なりません。指導的立場にある者がいかに、自らがみことばに立って、神の前に自らの内側を問いながら、信徒らを戒めなくてはならないか、その厳粛さを覚えます。

〈両端への逸脱を避けて〉
 初代教会も現代の日本の教会も、いつの時代も教会は「戒めなき愛」と「愛なき戒め」の両極端に逸脱しやすいものです。指導者は常に「戒めることなき愛ならざる愛の僕」か「愛なく戒める専制君主」となる危険性を常に身に帯びています。その結果、教会はこれまた「聖さと義しさの喪失」か「神を畏れぬ権威主義」のいずれかの状態に陥りがちなものです。

 不謹慎な対比かもしれませんが、暴力団の分裂問題を機会として、教会の除名や戒めを考えてみました。「破門」と「絶縁」の違いから、教会の除名の意味を聖書から探ってみました。厳粛極まりないことですが、教会は、とりわけ指導者は、「戒めるべきは、愛をもって戒めてきたか?」と「愛なくして戒めてこなかったか」の両者を常に神の前に問われるのでしょう。

 除名さえ愛によって行使し、除名までして義を願うという聖書が描く過激とも言えるありようを、それぞれが教会の中で、追求、徹底できたらと願うばかりです。また、現実に問題が起こった時、この拙い記事が指針や参考として、少しでも用いていただければ、感謝なことです。