教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「前例踏襲から、新たな前例の形成へ③~問われる礼拝」

〈礼拝についてのホンマでっか?!〉
以前、礼拝学の教師として尊敬している
某福音派牧師から聞いてショックだった言葉
「宣教師が日本に伝えた礼拝は、手抜き」
「本国ではちゃんとしていたはず」
「それなのに宣教地日本にくるとしない」
 
「ホンマでっか?!」と思ったこの言葉
これが事実なら、考えさせられる
もちろん、異論もあるだろう
教派によっても事情は大きく異なるだろう
 
でも、もし事実だとすればどうだろう?
悪意に解釈すると、宗主国的な上から目線
宣教地の神の民に対しての愚民政策
善意に解釈すれば、宣教地に優しい礼拝、簡略版
キリスト教的歴史と文化がないことへの愛の配慮
〈踏襲してきた前例とは?〉
プロテスタント宣教が150年を超える
戦後も、まもなく80年になろうとする
日本は、いまもまだ、宣教地なのか?
宣教師が伝えたそのままの礼拝をささげるのか?
前例踏襲してきたその前例自体が
完成度も成熟度も低いものであったのか?
もし、事実なら、これは、不都合な事実かも
それでも、悲観すべきではないだろう
宣教師が伝えた礼拝は、踏襲すべき前例でなくても
成熟に向かう基礎となる初歩的土台ではあるのだから
〈コロナ禍の中で示されること〉
コロナ禍の中、礼拝は変化を強いられることに
礼拝時間の縮小、プログラムの簡略化
それによって、逆に、礼拝が充実したとの評価も
本質的でないものを捨てたから成熟したのか?
これまで、すべきなのに、できなかった改革が
想定外の外圧によって、実行できたのか?
一方、コロナ禍により課題が顕在化したのと指摘も
礼拝軽視が進み、対面礼拝を再開後に礼拝者は減少
これは潜在的な課題が顕在化しただけのこと
実は、礼拝者減少、それ自体が課題なのではない
それは本当の課題の結果としての現われ
いわば、病気ではなく、病気の症状に過ぎない
本当の病気は何か?本当の課題は何か?
 
それは、元々来なくなるような礼拝者であったこと
そもそも主体的な礼拝者ではなかったこと
義務感や惰性が礼拝の主たるモチベーションだったこと
そうなったのは、礼拝は大切とスローガンように語られても
礼拝の意味と目的が伝達されてこなかったから
礼拝の外的形式を満たせば、それ以上問われなかったから
礼拝自体は、聖書的で神学的にも正しくても
それにふさわしく礼拝者が育てられてこなかったから
〈それ以前の問いかけ、確認〉
礼拝のどこかに、死んだ前例があるなら、
新たな前例を形成すべきだろう
しかし、その改革に着手する前に
問われるべき、確認されるべき前提がある
同じことをすることによる安心の獲得
それによる信仰のアイデンティティーの確認
 
それらが礼拝の目的に置き換わっていないか?
礼拝の意味と目的が理解されている?
そこに一定の聖書的根拠があるか?
礼拝における優先事項は礼拝者の快適さか?
神が喜ばれ、受け入れられる礼拝であることか?
 
聖書には「人間の好き勝手な礼拝」との文言も
礼拝においては会衆適応性も大切な要素
しかし、神より人が優先されるなら、
「人間の好き勝手な礼拝」に逸脱しかねない
新たな前例がそうであってはならない
〈前例としての礼拝者自身〉
生きているか死んでいるかが本当の意味で
問われる前例は、礼拝ではなく、礼拝者自身かも
礼拝の意味を理解し、主体的にささげているなら
その礼拝者は、生きた前例、踏襲すべき前例
そうでなく、義務感と惰性からお付き合いをしているなら
その礼拝者自身が、死んだ前例、踏襲してはならぬ前例
 
もし、そうであるなら、礼拝者自身が「踏襲」をやめて
聖なる生きた献げものとして自らをささげる「前例の形成」を
求められるのは、死んだ前例である礼拝者の課題を自覚
そのような礼拝者に対しての戒め、助け、導き
自戒を込めて思うのは、教職者の責任の重大さ
指導者自身が礼拝の本質と意味を語らず、礼拝教育を怠り、
礼拝者を未熟さの中に留め、礼拝を形骸化させてはならない
自らの責任を省みずに、信徒に責任を押し付けてはならない
〈結語〉
礼拝については、教派、団体、各教会で状況は千差万別
ひとまとめに、語ることはできそうにはないけれど
今、ささげている礼拝を検証、評価するために
前例が生きているか死んでいるかを判断するために
何より礼拝者自身が自らを省み、成熟に向かうために
そして、今後、神に喜ばれる礼拝をささげるために
拙い本稿が何かの参考になれば、望外の感謝