教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「アメリカにはクローザー牧師がいるんだって③」

〈伝えたい正論、問いかけたい本質〉
今回は、教会の閉会にまつわる諸事情や様々なご心情は理解した上で、それでも「伝えたい正論」、「問いかけたい本質」を記します。
 伝えたい正論とは、「聖書が記す教会観」。教会論は多様ですが、クリスチャンの多くが賛同できる基本中の基本を確認します。そして、その確認のために「二つの問い掛けを」をさせていただきます。
〈「公同の教会」を告白していますよね?〉
 最初の問いは「使徒信条等で、公同の教会を告白していますよね?」というもの。多くの教会では、使徒信条を用いて信仰告白がなされています。その中で「我は公同の教会を信ず」と告白します。
 本気で告白していますか?意味を理解して告白していますか?公同の教会とは、乱暴に言えば、「時代、民族、教派を超えた目に見えない普遍的な一つの教会」。英語では「カトリック・チャーチ」です。意外で驚く方も少なくないでしょう。これを機に、意味を噛みしめて、信仰告白をしましょう。
 この「公同の教会」と自らが集う「地域教会」の関係が腑に落ちていることが大切。その納得が深ければ、深い程、閉会に際して、感情的にならず、聖書の指針に沿って考えることができるでしょう。昨日、記したように「一細胞の死」と「からだ全体のいのちの存続」として、受け止めて、次のステージに向けて信仰的に歩み出せると思うのです。
〈献堂しましたよね?〉
 もう一つの問い掛けは?「献堂しましたよね?」です。多分、礼拝堂のある教会は献堂式していますよね。教会員は、主に献げる約束や宣言をされたはず。それは、口だけ、言葉だけ、建前だけですか? それとも、神と人の前での真実な約束でしょうか?
 「献金にひもをつけてはいけない」とは聞きますが、「献堂にひもをつけてはいない」とは聞いたことがありません。でも、後者の方が、はるかに重大な戒めではないでしょうか?
「私の教会は」「うちの教会では」との表現。それ自体は、悪くないでしょう。ただ、その「私の」は「帰属」を意味しているのであって「所有」を意味しているのではありません。つまり、「私の帰属する主の教会」であるはず。
 時に「牧師による教会の私物化」が問題視されますが、それに比して、潜在的に広範囲に見られるのは、「教会員による教会私物化意識」ではないでしょうか?そう、「無自覚の所有意識」なのです。それが、いざという時に出て来るのです。会堂と教会が同一視され、教会を自分たちの所有物とするような言動が無自覚に出てきます。
 献堂をしたのですから、会堂は人の所有ではありません。所有権のある方が「お疲れ様、はい、ここまで」とおっしゃるなら、閉じるのが正論でしょう。主ご自身の主導権を認め、それを祈り求めることでしょう。それをせずに「いいえ、まだ」と肉的思いによって抵抗し、教会を継続させようとするのはどうかと思うわけです。
〈まとめとお願い〉
 信仰の世界において、避けたい課題について正論を語られる程、「不愉快なこと」はありません。聖書を根拠に、本質を問われるほど「痛いこと」はありません。今回の投稿はまさに「そのもの」でしょう。
 とは言え、伝えなければ、正論を知らずに過ごし、問われなければ、本質を考えることなく、重大な場面を迎えてしまいます。その時では、遅いのです。だからこそ、今回の投稿を記しました。
 
「公同の教会を告白していますよね?」
「献堂しましたよね?」
 
寛容な心で二つの問い掛けを受け止め
お考えいただければ、感謝なことです。