教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも③~誤解や行き違い」

〈可能性としての誤解、行き違いも〉
 「説教が難しく、人が苦手で礼拝に来ない未信者の実際」を伝えると「礼拝出席が基本」と答える牧師・・・。昨日記したように、「基本」との言葉について、既に牧師と信徒の間に、誤解や行き違いが起こっている可能性があります。
 「礼拝が基本」を「礼拝出席限定」と受け止めたのでしょう。二人の関係と文脈上、そう解釈するのは妥当でしょう。しかし、弱さを持つ未信者の救いを願う信徒は、牧師の考えに納得できません。ましてや説教の改善のお願いなど到底できません。この場合、牧師と信徒の間に誤解や行き違いがあったら、それは放置され、両者の溝がさらに深まることが予想されてしまいます。
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〈正直な対話があれば・・・〉
 もし、牧師と信の間で正直な対話が可能であれば、この方は、納得できない思いを伝え、納得できる回答を牧師から得られた可能性があります。伝道の思いを挫かれることなく、牧師に不信感を持たずに済んだかもしれません。
 あるいは、牧師が自分の発言が誤解を招いたことに、あるいは、自分の発言の矛盾に気づき、弱さを持つ方の救いについて有効な助言や支援ができたかもしれません。その結果、この方と牧師の信頼関係は深まったかもしれません。これは、牧師と信徒の間でよく起こる残念な事例。
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〈牧師への理解と愛を〉
 そこで、今回は信徒から牧師への理解と愛を願って記します。牧師の多くは教会の交わりの中にあっても孤独になりがち。さらに外においては、未信者の友人が一人もいないという方も少なくないようです。
 人によりますが、一般社会とは隔離され、狭い世界で歩みがちなもの。そのために、自己客観視が困難に。自分を見失っている牧師は信徒の現実も、教会全体も見失いがち。その結果、信徒に心配され、不信感を持たれる言動に至ることも。
 そうならないように、大切なのは、牧師自身が、教会の健全な交わりに生きること。そして、牧師の自己客観視を助けるのは、信徒からの「控えめなお願い」「説教に対しての配慮あるフィードバック」、そして、時には、「愛あるダメ出し」です。
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〈愛をもって真実を語る〉
 聖書には、「愛をもって真実を語り」(エペソ4:15)とあります。これは、信徒相互だけではなく、牧師も含めた教会の交わり全体に語られた言葉と私は考えています。教会内の言語的コミュニケーションで大切なのは「愛をもって真実を語ること」。そして、語る内容は「真実」です。語る動機は「愛」です。
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しかし、どうでしょう?
私たちは「動機」と「内容」を両立しているでしょうか?
愛なしに真実を語り、牧師を責めてはなりません
牧師を愛するなら、必要な真実を語らないのは愛に反します
エペソ4:15に立って、少し考えていただければ感謝。