教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも②~悲しい結果的排除」

〈礼拝出席が唯一の道なら、結果的排除〉
 この事例が、結果的に心の病を持つ方を排除してしまっている理由は簡単です。礼拝に集うことが困難な方に対して、救いに至る基本路線を礼拝出席に限定していると受け止められるからです。ここで、牧師は「基本」と発言し、信徒は、それを「礼拝限定」と理解しているようです。もしかするとここに既に行き違いが生じているのかもしれません。
 もし、この方が受け止めたように、礼拝出席し、牧師の説教が一定理解できることが、救いのハードルであるなら。人の集まりや人間関係が苦手な方、知的能力面で課題を持つ方などは、結果的に救いの恵みから排除されてしまいます。イエス様が社会から疎外された方々と優先的に交わりを持たれたことを思えば、キリストのからだである教会がそうであってはならないはずです。
 しかし、聖書的理想に歩めない現実も考慮しなくてはなりません。弱さや特別事情を持つ方が教会に集ったことで、多くの教会離脱者を生み出し、分裂を招くことがあります。信徒たちが未熟あるいは自己充足的で、 「力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべき」(ローマ15:1)を期待できない場合もあります。牧師の説教も、一つのハードルになりかねませんが、それについては、後日記し予定です。
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〈救いへのプロセスは多様〉
 そうした方々の救いの道を閉ざさぬために、様々な実践が為されています。そもそも、礼拝出席が救いに至る唯一の門ではありません。牧師が、超多忙であるにもかかわらず、礼拝出席できない一人のために、救いを願って、定期的に学びや交わりの割いている事例を見聞きします。
 また、都市部であれば、弱さを持つ方が安心して集える他の教会を紹介することもできるでしょう。信徒が弱さを持つ方と共に、その教会に礼拝出席して、つなげていくことも一つの選択肢だと私は思います。
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〈当たり前のこととしての信徒による伝道〉
 もう一つ大切なことがあります。牧師にだけ負担をかけてはなりません。繰り返しになりますが、礼拝出席だけが、救いに至る道ではありません。むしろ、教会から散らされた信徒が信仰を証しして、信仰決心に導けたら、最高でしょう。よく言われるように「集める伝道」より「出て行く伝道」の方が聖書的だし、結実を期待できるでしょう。伝道の時と場所は、主日礼拝ではなく、むしろ、日曜午前以外の時間、教会以外の場所でしょう。
 求道者用テキストやネット上のコンテンツを用いての学びや求道クラスなどを、牧師主導でなく信徒ができればよいと思うのです。もちろん、教会の理解や承認を受けてのことです。むしろ、牧師は、個人伝道や学びのリーダーができる信徒を育てること、担当信徒に助言を与え、伝道を励ますことかと思うのです
 教会には一度も来たことがない方が、信徒の伝道と証しによって、刈り取るばかりになること、礼拝出席前に信仰決心に導かれることもアリでしょう。障害、病気、高齢、介護、看護、職業などの理由で、礼拝出席が困難な方が救われ、教会員に加えられ、オンラインだけで礼拝をささげることも、アフターコロナの時代に開かれた素晴らしい救いの道ではないでしょうか。
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〈まとめと次回予告〉
 牧師の説教が理解できず、人の集まりが苦手で、礼拝に来ない未信者がいらっしゃいます。一方で、礼拝出席を救いに至る基本路線とする牧師がいます。結果的に、弱さを持つ方々が救いの恵みから排除されているように、信徒が感じるのは当然です。背景には、自己充足的で、そうした方と歩むことを厭う信徒たちがいるのかもしれません。
 そして、この課題をさらに解決から遠ざけるのは、「牧師と信徒が普通に対話できないこと」にあります。そのことを次回は記してみます。