礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「主日礼拝、それってどうよ?⑤~役立つ教会員で残念礼拝者」

〈うーんと思う礼拝者〉
 奉仕先で時々、お目にかかるのは、「うーんと思う礼拝者」。礼拝は忠実にささげ、遅刻するわけではないのです。むしろ、教会の中心的信徒で、聖書知識は豊かで、神学的な知識もあり、有能で教会にとっては大いに役立っている信徒なのです。
 しかし、礼拝前に、真摯に備えているようには見えません。賛美を歌いはしますが、表情には敬虔さや喜びが感じられません。後ろの方の席に座り、説教時には、目を閉じ腕組みをします。説教がもう一つだと週報などを読んでいます。その日の聖書箇所については、ある見解をもっており、牧師の説教に対する評価や批判は一定の正しさがあります。そして、万事、卒なくこなします。
〈その礼拝観、神様の評価〉
 以上はかなりステレオタイプに描いた事例です。このタイプの礼拝者にとっては、礼拝は神との人格的交わりではなく、「信仰生活における一つのシステム」、あるいは「教会内パフォーマンス鑑賞」「聖書講演とその付属からなるプログラム」なのかも。
 礼拝説教も神様から自分への人格的な語り掛けではなく、処理すべき客観的な情報。説教に対してすることは、「人格的応答」でなく「情報処理」。ですから、「御言葉をよく知ってはいるが、ほぼ実行していない」というケースも。このタイプは、女性よりも男性であることが、圧倒的に多く、教会では大活躍でも、妻から尊敬されていない方が多いようにお見受けします。皮肉にも、熱心で有能で、そして男性であるために、信徒の支持を得て、役員になったり、教会内で活躍をしたり。役立つので、牧師にとってもありがたい存在に思えることも。
 でも、「神様からご覧になったらどうだろう?」と思うのです。神様が第一に願われるのは、真摯な礼拝でしょう。奉仕などの活動への熱心さや教会運営への貢献ではないでしょう?そう考えると「役立つ教会員にして残念な礼拝者」は、人に喜ばれても神様に悲しまれているのかもしれません。
〈原因と背景〉
 当人自身の課題であるとは思うのですが、礼拝教育をしないこと、さらに言えば、「礼拝者育成努力」をしないとが、このタイプの礼拝者の背景にあるように感じています。教会の役に立つために、牧師も問題視せず、当人も課題を自覚しないと、問題は放置されてしまいます。
 「真摯な礼拝者」よりも「役立つ教会員」を育てやすい傾向。このことの背景には、「伝道優先、礼拝軽視」の昭和福音派体質や「活動重視、交わり軽視」の高度経済期体質があるように、思えてなりません。その延長線上にあって、礼拝の豊かさを妨げる「本質を失ったプラグマティズム」に陥り礼拝の豊かさを失っていなければ、いいのですが。そんなことを「どうよ?」と思っています。