「ショートメッセージ」

「甘えとか弱さじゃない本当の愛」

フェリス女学院大学チャペルでのメッセージを、宗教主事の許可をいただき、以下に掲載します。
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聖書:コリント人への手紙第一13章3-7節
説教題「甘えとか弱さじゃない本当の愛」
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 お気づきの方もいらっしゃるでしょう。説教題の「甘えとか弱さじゃない。」という言葉は、あるヒット曲の歌詞の一部です。生まれていない方もいらっしゃるかもしれません。20年ほど前ですが中島美嘉さんが歌った「雪の華」の中にこんな歌詞が登場します。「甘えとか弱さじゃない。ただ君を愛してる。心からそう思った。」この歌詞は、主人公が、かつて、愛だと思っていたものが、実は甘えや弱さだったと気が付く経験をしてきたことを暗示しています。
 そうです。相手を甘えの対象として、わがままを聞いてもらえることが愛だと考え違いをしてきたのです。自分の弱さから、相手に依存し、弱さを受け止めてもらえ、依存心が満たされることを愛だと思い違いしていたのでしょう。甘えや弱さに由来する依存は、「愛の類似品」の典型です。愛と取り違えられやすいものの代表と言えるでしょう。
 この歌は本当の愛に到達した男性の物語です。本当の愛で大切な人を愛せる自分となった男性を歌っています。弱さや愛に由来する「類似品の愛」から、「本当の愛」へと脱皮を遂げた男性の歌です。実は、聖書はそのような「本当の愛」を私たちに示しています。そして、その愛に生きるようにと勧めています。
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 ただいまお読みいただきました聖書箇所から、今日は5節だけをピックアップします。もう一度、コリントの信徒への手紙第一の13章の5節をお読みします。「礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」
 聖書は、「4つのことをしないこと」が本当の愛だと言います。それらは、「礼を失すること」「自分の利益を求めること」「いらだつこと」「恨みを抱くこと」です。しかし、どうでしょう?これら四つは、残念なことに、愛の関係の中で起こりやすい事柄ではないでしょうか。いいえ、むしろ、愛の関係の中でこそ、起こりがちな「愛の類似品」と言えるのではないでしょうか。
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 まずは「礼を失する」です。親しくなればなるほど、平気で礼儀に反する事をすることがあります。礼儀に反することが許される程、愛されていると考えることがあります。礼儀に反してもどこまで許してもらえるか、それで相手の愛情を図る。そんなことをして誰かを困らせたり、逆に誰かにそれをされて苦しんだりした経験があるのではないでしょうか?これは、「愛」ではなく「甘え」と呼ぶべきでしょう。
 
 次は「自分の利益を求める」です。「あなたのためなのよ」「おまえのために言うんだぞ」、そんな親や大人や先輩の言葉に、嘘臭さを感じたことはないでしょうか?「それ、本当は自分のためだろう」って、心の中で思ったことはないでしょうか?でも、もしかしたら、自分の思い通りにしたい相手に同じことをしているということはないでしょうか?
 
 三つ目は「苛立つ」です。礼を失してまで、自分の利益を求めながら、相手が思い通りにならないとイラつきます。親しいから、好きだからこそ、自分の思い通りにならないとイラつくというのは、家族や恋愛の中ではよくあることではないでしょうか。それは、相手の事を思っての苛立ちでなく、相手が自分の思い通りにならない自己中心から発する苛立ちであり、愛に反することでしょう。
 
 最後の四つ目は、「恨みを抱く」です。礼を失してまでも、自分の利益を求めて、思い通りにならないと苛立つ一方で、自分が、人からされた悪については恨みを抱き続けるのです。この「恨みを抱く」という言葉は、元々は「帳簿につける」という会計用語だそうです。「何月何日何時何分今の言葉傷ついた」とか「今されたことむかついた」とか、帳簿につけるのです。そして、時々その帳簿をカバン取り出して、読み返すのです。「どんだけ性格悪いの」ということですが、他人事ではないでしょう。
 
 これら四つは、甘えとか弱さから来る「愛ならざる愛」「愛の類似品」の代表です。そして、そうした愛の世界に歩みやすい私です。しかし、そんな私たちを神様は愛しておられます。ですから、そんな自分に向き合い、愛だと思ってきたものを類似品、偽物だと認めるなら、そして、神様の愛に触れられるなら、類似品を捨てながら、本当の愛へと向かうことができるのです。
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 以前、ラジオでこんな投書が読まれているのを聞きました。ミッション系の大学に通っていた一人の女性が、卒業論文を、不注意で締め切りに1日だけ遅れて提出しました。1日遅れであっても卒業は認定されないこととなりました。そこで、既に就職先も決まっていた彼女は学長に直談判に行きます。
 学長はカトリックのシスターでした。頑として卒業を認めない学長に彼女は言いました。「この大学はキリスト教の大学ですよね。どうして一日くらいのことで認めてくれないのですか?」学長は言いました。「キリスト教の学校だから認めないのです」と。
 これだけが唯一の正解ではないでしょう。4節には「愛は情け深い」とありますから、何らかの条件を付けて、卒業を認めることも正解の一つでしょう。しかし、この学長は厳格な判断をされたのです。
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 結局、彼女は、留年して大学を卒業します。それから長い月日が経ちました。彼女は就職し、結婚し、お子さんを授かり育児に励んでいました。ある時、母親となったこの女性は、思い立ち、母校へ行き、学長を訪ねました。学長は、あの時と同じシスターでした。
 彼女は学長にこう語ったそうです。「先生、あの時は大切なことを教えていただき、ありがとうございました。」社会に出て人を愛し、夫を愛し、子どもを愛し育てていく中で、本当の愛に目が開かれたのでしょう。そして、学長が、あの時、本当の意味で、自分を愛してくださったことを悟ったのでしょう。
 かつて、彼女が学長に直談判したことは、礼を失した行為で、利益ばかりを求めていたのでしょう。思い通りにならない学長に苛立ち、その後も、学長に恨みを抱き続けたことでしょう。でも、そんな彼女は、愛し、愛される歩みの中で成長し、本当の愛を悟ったのです。
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 みなさんには、甘えとか弱さではない本当の愛に生きて欲しいと願います。依存心が満たされることを愛として受け止めることのないあなたであって欲しい、親や恋人や夫からの支配に愛を感じることのないあなたであって欲しい、子どもや夫や立場が下の者を支配することで心を満たすことのないあなたであって欲しいと願うのです。
 自立した女性として、支配でも依存でもない、支え合い共に生きる中で、愛を実感するあなたであって欲しいと願います。
 コリントの信徒への手紙第一、13章5節は言います。「愛は、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」聖書の語り掛けに耳を傾け、神様の愛に触れられて、本当の愛へと向かって行かれますように、お祈りします。
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〈祈り〉
 天におられます父なる神様、愛が何でないかを通じて、愛が何であるかを指し示してくださり、ありがとうございます。この語り掛けを受けて本当の愛に生きる祝福の歩みへと私たちをお導きください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。