礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「歌を賛美し、祈りを祈り、信仰告白を唱え、礼拝を守る?」

 〈ツッコミの実例〉
 コロナ前は、主日のほとんどは、福音派を中心に全国各地の教会で礼拝奉仕をさせていただいておりました。一礼拝者として、どうしても気になってしまうのが、「礼拝司会者の言葉使い」。心の中で、ついつい、ツッコミを入れてしまいます。
司会者「讃美歌〇〇番を賛美します。」
ツッコミ「『讃美歌〇〇番をもって、主を賛美します。』でしょ。歌を賛美するんじゃないんだから。」
司会者「皆さんで主の祈りをお祈りしましょう」
ツッコミ「そこは、『共に主の祈りをおささげしましょう』の方がいいのでは?祈りを祈るってどうよ?」
司会者「使徒信条を唱えましょう」
ツッコミ「『唱えましょう』ってどうよ?そこも『使徒信条をもって、私たちの信仰を告白しましょう』じゃないの」
司会者「(礼拝開始時に)今日も、礼拝を守れたことを感謝します」
ツッコミ「まだ、守れてないし、礼拝これからだし。礼拝は守るよりも、ささげるものだし。そこは『礼拝をささげられる恵みを感謝します』でしょ。」
〈ツッコミの趣旨説明〉
 この四つが主な「ツッコミどころ」となっていました。実にウザいツッコミですが、気を悪くされませんように。
「主を賛美」なら、礼拝者の心は、礼拝対処である主に向かいます。しかし、「○○番を賛美」だと、歌を歌うこと自体に心が向かいがちとなり、意外にも、礼拝者の心は主に向かわないのでは?
 主の祈りは「われらの祈り」「共同体の祈り」。「皆さんで」という同時性より、「共に」という共同体性を大切に。また、祈りも「主にささげる」との意識で。
 使徒信条は信仰告白でしょう。「唱える」と言えば、どうしても、「暗唱すること自体」に意識が傾きがち。口で共に告白することの意義が失われてしまうのでは?
「礼拝を守る」と言えば、礼拝は「義務遂行行為」に。「礼拝をささげる」と言えば、礼拝は「神との人格的、愛の交わり」に。前者は、礼拝開始時の時点で、「礼拝に来た」という自己満足を与え、礼拝の質を低下させかねません。後者は、礼拝者を「これから真実な礼拝をささげよう」という意識へと導くでしょう。そもそも礼拝は、守るという受動的行為ではなく、神の召しと恵みと語り掛けに応答する主体的行為を含む「交わり」なのでは?
〈司会の言葉の大切さ〉ㅤ
 司会者の言葉の選択一つで、礼拝者の意識は大きく左右されます。その言葉使いが「聖書的な礼拝観」を反映しているのか、「人間側の義務遂行感」を反映しているかの違いは、礼拝が、主に向けられるか、人間側の営みに終始してしまうのかにリンクするように感じています。
 礼拝形式は、本来、聖書が示す礼拝の本質が具現化されたもの。本質を実行するための形式です。しかし、司会者の言葉が「形式を自己目的化」したものとなるとき、礼拝自体が、形骸化するのではないかと危惧をします。
 その結果は、「聖書的形式だが、神との人格的交わりという実態のない礼拝」「正統的だけど喜びのない礼拝」「説教の出来不出来がほとんどすべての礼拝」なのでしょう。
〈礼拝についての課題〉
 「礼拝は大切」と語られながら、「大切にされている実態」は、意外と怪しいもの。その表れの一つは、礼拝司会者の言葉使い。さらに言えば、礼拝司会者への教育を必要と考えていないこと。奏楽者は、「礼拝とは何か?」という本質を学び、奉仕についても訓練を受けることが多いですが、司会者はそうでないように観察します。
 また、礼拝司会を信徒がすることは、決して標準ではありません。伝統的な教派では、教職者が司式をするようです。福音派においても、礼拝の司会は、「司会」ではなく「司式」に準ずるように私は感じています。それだけに、信徒が司会をする限りは、最低限の聖書的礼拝観とそれを反映した司会の言葉使いなどは、教育されるべきなのでは?
〈司会者教育の必要性〉
 礼拝司会の教育という具体的な試みは、一般に考えられているよりはるかに、教会に結実をもたらすと私は考えていますし、そうした成功事例を見てきました。実を結んでいる教会は、一定の礼拝司会者教育をしていることが多いです。
 礼拝司会者教育は、礼拝を神様に喜ばれる真実なものとし、礼拝者を成長させ、結果的に、伝道の結実にも結び付いていくのではないでしょうか。長年、各地の福音派教会の礼拝に集ってきた経験からの実感として、今回、記してみました。