礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「知って驚いたミサの語源③~いつから宣教性を失ったのだろう」

〈礼拝と交わりの充実→宣教の衰退?〉
 昨日は、ポストコロナの教会は、「伝道と奉仕」から「礼拝と交わり」、「活動主義から共同体性」と記しました。しかし、これに対しては反論も。「豊かな礼拝を目指すと、教会が伝道的でなくなる」「交わりを充実させるといよいよ内向きに」などです。確かに「教会あるある」です。神学的に正しい実践が教会を衰退させる「お約束のパターン」かもしれません。
 でも、それは問題の所在を見誤っていると思うのです。礼拝を大切にするから、伝道が進まないではなく、礼拝を「自己充足的な方向」で大切にするから、伝道が進まないのです。交わりが充実すると内向きになるのではなく、「自己充足的な交わり」に向かうから、宣教性を失うのです。
〈問題は自己充足と自己愛性に?〉
 初代教会は、一般社会には見られない豊かな愛の交わりが、信仰の証となり、未信者を教会へと導いたようです。そう考えると、問題の所在は、礼拝も交わりも、自己充足的な方向で、充実をさせようとする私たちの自己愛性にあるのでしょう。福音によってこうした「肉」が取り扱われる必要を痛感します。
 日本社会に生きる現代人クリスチャンは、日本的な「内向きメンタリティー」や「現代的自己愛性」から、自己充足に向かってきたように思います。他者への関心を失い、クリスチャンが自分個人の人生を充足される方向で福音を用い、教会もそのための機関であるかのような歩みへと変質してきたように感じます。
〈礼拝と交わりを振り返り〉
 聖書が示しているような「礼拝や交わりが本来持つ宣教性」「その向きの方向性」をいつの間に、私たちは失ってしまったのでしょう。伝道を優先するあまりに、教会を「礼拝付き伝道団体化」してしまったことかもしれません。礼拝さえも、それ自体の価値や意味を自覚できず、義務化され、みんなで同じことをすることで一体感を与え、一丸となり活動させるものとして、「手段化」されてきたのかもしれません。
 交わりも活動を支えるためのものであったのかもしれません。戦場における病院のように活動のための励まし、慰めを与えるものであったのかもしれません。活動最優先であったために、神の家族としての人格的なものでなく、個人主義的で表面的で、外部の方にとって魅力のないものに終始してきたのかもしれません。
 伝道活動を最優先にしながら、逆に、礼拝と交わりが内に持っている宣教性を見失って来たのではないか?伝道において他律的人為的になり過ぎて、主体的で自然発生的な宣教の力を用いて来なかったのかもしれません。自分がお世話になってきた昭和の教会を回顧しながら、そんなことを考えています。