同性愛についての資料と牧会上の指針

6.牧会編

1.教会としての対処

(1)対処の原則

イエス様の性的罪人への対処:姦淫の女を赦し、遊女を交わりに受け入れた
ヨハネ8章姦淫の女への対処:罪の赦し「私も責めない」と同時に罪からの開放
                   「これからはもう罪を犯さないように」

 基本姿勢として教会は性的罪に対しては、受容し、キリストによる赦しと開放を与える役目を持つはずです。邦訳されている「教会と性的罪」(いのちのことば社)には、性的罪人への牧会的対処の優れた原則が記されています。是非一読をお勧めいたします。
 やはり、教会は同性愛者についても、受容し、赦しと開放を与えるべきでしょう。

(2)受容、赦し、開放

1) 受容について
 その方が、同性愛傾向に苦しんでおられ、行為にまでは至っていない場合は、その葛藤や苦悶は受容し、その傾向自体は罪でないことを告げてはどうでしょうか。また、そのような傾向性を持ちながらも、同時に祝福されたクリスチャン生活を歩まれる可能性を模索される事をお勧めいたします。

 その方が同性愛行為者である場合は、何より、感情的に反応しないことでしょう。異常や不気味に思えるのはそれが少数派の性的罪であるからです。同性愛行為は姦淫など、他の一般的な罪同様の対処を心得るべきでしょう。牧会者は同性愛について、聖書が一般的な性的罪として扱っていることを知っておく必要があるでしょう。同性愛者である兄弟姉妹の人格を貴び、決して、その人物を傷つける言動があってはならないと思います。暖かい受容と理解こそが、同性愛者にこの問題に向かい合って行く勇気と力を与えます。
 ただし、罪人を受容することと、その罪を容認することは全くの別の事柄です。場合によっては、「これからはもう罪をおかさないように」祈り願う必要もあるでしょう。
 受容の段階の次には「愛の対決」とも言うべき場面が必要でしょう。つまり、同性愛行為の中止を何らかの形で勧めることです。それは牧会上における関所と言えるでしょう。
 私は祈りによって医学的には不可能な癒しが起こり得る可能性を信じますが、同性愛の癒しのために祈ることについては慎重であるべきだと考えます。そのような祈りを耳にする同性愛者は自分があるがままで受容されていないと受け取る場合が多いと推察するからです。特にカウンセリングの場合、異性愛者に転化させることを目標とするか、それとも、同性愛傾向を持ちつつ、自制し、独身で仕えることを目標とするかが問われます。

2)赦しについて
 他の罪と同様に、同性愛行為もキリストによる赦しの対象です。あたかも、それが赦されざる罪であるかのように扱わぬことが大切かと思われる。何よりもカミングアウトによって、教会の交わりから除外されることがあってはならないでしょう。コリント教会には、近親相姦の罪がありましたが直接それは除名対象とはならず、まずは、悔い改めの対象であったはずです。牧会者は特に聖書から罪人に対する適切な対処の原則を学んでおく必要があると思われます。
 また、同性愛者の洗礼について私見を述べておく必要があるかと思います。同性愛傾向を持つ方への受洗は何ら問題がないと思います。いかなる罪でも赦しの対象だからです。性的に聖い生活を送るか否かは受洗の条件ではないでしょう。受洗後にそのような歩みへと導いて行けばいいのではないでしょうか。そのような性的に御心にかなった歩みを願うという約束さえできれば、先例は授けるべきだというのが私の見解です。

3) 開放について
 福音には、人をあらゆる罪から開放する力があることを信ずるなら、教会には努力する責任があるでしょう。聖書的カウンセリングなど心理学的アプローチでの治療例は欧米の資料によれば多くあります。脱同性愛の働きに従事する指導者の中には、自分自身、元同性愛者という方もおられます。ご自分が受けた同性愛からの開放の恵みを同じ苦しみの中におられる隣人にお分かちしているのです。英語に強い方は資料編の書籍やホームページ、また、それらが紹介している資料が参考となるでしょう。

 しかし、日本の現状では、指導者側の知識、技術、資料の不足は否めないと思われます。私の存じ上げている牧師や精神医療従事者の中には同性愛の問題を扱った方は何人かおられます。しかし、複数例を扱った経験を持ち、一定の効果をあげたという方はいらっしゃいません。また、日本の現状では、牧会やカウンセリングの場まで同性愛の問題が上ってこないようです。
 そのような中でも、同性愛の問題について正しい知識を持ち、聖書的カウンセリングなど心理学的アプローチを試みて下さる方は数人存じ上げております。その中には一定の成果を上げたと思われる方もいらっしゃいます。また、ある程度のカウンセリング経験を持っておられたら、同性愛者の方と共に学びながら開放のお手伝いができるような日本語テキストを紹介することもできます。私までご連絡下されば、そのうような牧師、カウンセラー(地域は限られますが)あるいはカウンセリングテキストをご紹介することができます。

(3)今後の展望

 今後、日本では家庭の歪や世界的な同姓容認傾向の流れの中、同性愛者の増加が予想されます。特に父親の心理的不在や母子密着など、家庭が正常に機能していないことを原因とする同性愛と近親相姦は、将来牧会上の扱うべき問題となって行くとえられます。実際にアメリカでは同性愛と同様に近親相姦が大きな社会問題となっています。牧会者は、これらの問題に対するある程度の知識や理解とともに、判断基準となる聖書における性的罪の記述について深く学ぶ必要があるでしょう。

(4)教会の実際

 カトリック教会と聖書信仰に立つ教会は同性愛者を(同性愛傾向が消滅しない限り)一生独身であることを前提に教会に受け入れるという姿勢が主流のようです。これは、同性愛傾向者は教会の交わりに受け入れるが、同性愛行為は容認できないという聖書的神学的判断に基づくものと考えられます。正反対の姿勢として、自由主義的な一部の教会では同性愛を多様なあり方の一つとし、同性間の結婚を認める場合もあります。

2.私が出会った方々について

 私が出会ってきた日本人クリスチャン約同性愛者30名について守秘義務違反とならない範囲で記します。

牧師へのカミングアウト :約半数。
家族へのカミングアウト :30人中一人。
友人全体へのカミングアウト :約三分の二
教会員全体へのカミングアウト:皆無

後天性であるとの自覚:約10人
同性愛行為の経験者 :約三分の一
同性愛者としてのライフスタイルを一定期間経験:5人ほど
牧師へのカミングアウトの結果:良かったと感じた人は大多数。
逆に拒絶的と感じた人は1人のみ。

信仰によって同姓傾向が消滅した方:30人中、3名。
信仰によって同性愛傾向弱まり、同性愛のライフスタイルをやめた方:5名ほど。

 母集団が少なく、私に連絡を下さったこと自体、特別なケースなのかもしれません。内容の性質上、推測に頼っている部分もあります。しかし、ほとんど方はご自分からすすんで、かなり具体的に性的な葛藤や過去の性行動をお伝え下さっています。これらは統計としての価値はないでしょうが、資料としてお役に立てば感謝です。

3.同性愛者の方々へ

 聖書はすべての人が罪人だと主張します。その罪という言葉は「的外れ」意味します。ちょうど、的に背を向けて矢を射ているように、すべての人は神様に背を向けて生きているという意味です。ですから、罪とは善悪の問題というより、本来のあり方を外れていると考えるのが聖書的でしょう。性においても、性を与え祝福する神様に背を向けるなら、それは性的罪です。ですから、聖書によれば、すべての人は生まれながらにして性的罪人だといえるでしょう。それは異性愛者、同性愛者の区別はありません。
 そして、聖書はそれに対する明確な解決として、神の愛と、その表われであるイエス・キリストを示しています。聖書は人類すべてが神様の愛の対象であり、イエス・キリストによって救われるべき存在であることを記しています。それもまた、異性愛者と同性愛者の区別はありません。
 聖書が明確に語っている事、それは異性愛者も同性愛者も区別なく、すべての人間は罪人であるという事、同時に異性愛者も同性愛者も区別なく神の愛の対象であり、イエス・キリストによって救われる者であるという事です。

 もし、あなたが同性愛傾向を持ちながらも主を愛し、仕える事を願っておられるクリスチャンなら、それは感謝なことです。あなたが同性愛傾向を持つ事は時に主に仕える事の妨げと感じられるでしょう。しかし、それは異性愛者も同じことです。既婚者であれ、未婚者であれ、結婚外の性という誘惑を受け、その情欲と戦いながら、忠実に主に仕えておられるクリスチャンは決して少なくはありません。何らかの理由で結婚する事ができず、情欲を自制しながら信仰生涯を全うして行かれる兄弟姉妹もおられます。また、生涯を独身で神様と隣人に仕えることは、確かに少数派ですが、神様によろこばれるライフスタイルです。聖書もそのようなライフスタイルを祝福されたものとして示しています。
 あなたが実際に持っておられる葛藤や苦悩の深さは計り知れないものでしょう。確かに様々な社会的不安や生活上の制限はあるでしょう。しかし、同性愛傾向を持ちつつ、祝福された信仰生活を全うする事は可能なのです。神様はそのことを可能とされます。その点だけは疑う事なく歩まれますように願います。神様は間違いなくあなたを愛しておられ、あなたを祝福しようと願っておられます。
 もし、あなたが同性愛者であり、クリスチャンでないなら、ぜひ聖書を読まれますように、また教会の交わりに加わられますようにお勧めいたします。同性愛者が神様の愛と救いの対象から除外されているということは絶対にありませんから。残念ながらすべての教会が偏見なく同性愛者を受け入れるとは限りません。よろしければ、お受け入れ下さる教会をご紹介いたします。その際は是非ご一報ください。

4.カミングアウトを受けられた方々へ

 もし、あなたがクリスチャンであり、同性愛者の方からカミングアウトをされた場合以下の原則に従って、愛に満ちた対処をされたらいかがでしょうか。参考にしていただければ感謝です。

(1)ご自分が絶大な信頼を受けており、相手は命懸けの告白をしていることを心得ましょう。
 性的な問題は牧会やカウンセリングの現場でも最も表に出てこない問題だと言われています。性は個人の最も深い部分に関する事柄ですから、残念なことですがある意味では当然のことでしょう。同性愛という少数者のもので、かつ社会的に差別と偏見の対象とされている事柄はなおさらのことです。
 一人の同性愛者が他の誰かではなく、あなたを選んでカミングアウトをされたのはどうしてでしょう。それは、あなたがクリスチャンであって、(家族以上に)信頼できると判断されたからでしょう。「この人だけは、同性愛者であるからといって自分を拒否せず、兄弟姉妹の一人として受け入れてくれると期待しているからでしょう。
 もう一つ、カミングアウトをする当人にとってそれは、最高に勇気を必要とすることなのです。もし、最も信頼できるクリスチャンが、カミングアウトによって同性愛者である自分にそれまでとは一転して拒絶的な態度をとったらどうでしょう。もう、最後の砦が崩れたような絶望的な気分になるでしょう。
 自分を受容してくれる社会や自分が精神的に帰属する場所は、この世にはなくなってしまったかのように感じるでしょう。クリスチャンであっても、人によっては自殺を考える事もあり得ます。だとすれば、あなたはその絶大な信頼に応える責任があります。あなたがどのように戸惑い、たとえ生理的な嫌悪感にさいなまれたとしても、信頼を受けたものとして誠実に応答すべきでしょう。あなたの対応次第によって同性愛者であるその兄弟姉妹は、大きな励ましや慰め、希望を得る事もできます。
 また、その反対に決定的な絶望を味わう事も有り得るのです。「互いに重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:2)私たちは教会の交わりにあって他の兄弟姉妹の重荷を負うという使命があるのです。
 あなたは、自分には荷が重すぎると感じておられるかもしれません。しかし、話しを聞いてさしあげるだけでもよいのです。それだけでも重荷は激減します。重荷をともにして祈れるならさらによいでしょう。あなたがカミングアウトの後もそれまでと同じように接することができれば、その方は受容された喜びに生きるでしょう。

(2)相手の立場に自分を置き換えて考えましょう。必然的に愛に満ちた対応ができるでしょう。
 隣人愛の基本は「自分にして欲しい事を相手にすること」(マタイ7:12)です。愛するには、想像力が必要です。想像によって自己を他者に置き換えて、相手のして欲しい事を実行するのです。ですから、自分が同性愛者であったらと想像しましょう。異性愛者であるあなたが、ご自分が同性愛者であったらと仮定してみましょう。少年時代から異性には関心がなく、思春期から青年期になっても同性しか性愛の対象とできないとすれば、どうでしょう。社会的にも人格的にも自立し、性的な機能においても成熟している段階で、ご自分が同性に性愛を向けざるを得ないとすれば、それはどんなにか不安で絶望的なことでしょう。まして、それを誰にも打ち明ける事ができないとすれば、
その孤独感、疎外感はどんなに深いものでしょう。
 あなたは同性愛者がカミングアウトに至るまでの苦悩や葛藤が、ある程度理解できるでしょう。一定の共感を持って相手の重荷を負う心の準備ができるでしょう。そうすれば、聖書が語る隣人愛の原則から大きくそれる事なくカミングアウトされた兄弟姉妹に対処する事ができるのではないでしょうか。

(3)拒否、断罪、排除は明らかに聖書的ではありません。
 クリスチャンの中には「同性愛」と聞いただけで、即座に拒否、断罪、排除のいずれかの態度をとる方がおられるようです。これは、明らかに聖書の原則に反するものです。同時に前項で示しました隣人愛の精神に反するものです。さらに申し上げれば、人間の性行動に対する無理解に由来するとも言えるでしょう。
 また、そのような否定的な態度は多くの場合、感情的で衝動的な反応にすぎないのではないでしょうか。それは慎重で客観的な聖書的な判断によるものかどうか疑問です。「教会の対処」の中で既に示しましたように、イエス様は性的な罪人を交わりの中に受容なさいました。ならばキリストの体である教会は当然、受容すべきでありましょう。教会というこの世界で最高の受容力を持つ共同体から排除された同性愛者はどこに帰属すればよいのでしょうか。
 特に牧師や役員等、教会の中で権威のある方は「拒否」や「断罪」という態度を取られませんように願います。結果的に教会にいることが苦痛となり、「排除」同然の結末となるでしょうから。「拒否」や「断罪」という態度からは何ら生産的な結果は生まれません。神様が愛しておられる一人の兄弟姉妹を失うだけです。私たちはイエス様との交わりの中で遊女や取税人たちが味わった同じ受容の喜びを同性愛者にも与えるべきでしょう。

(4)わからないことは、わからないと正直に告げましょう。無責任な断定、即座の判断や指示は控えましょう。
 私たちは謙虚でなければなりません。お互いはどれだけ、聖書中の性に関する記述を学んできたでしょうか。また、聖書以外の書物や一般の学問から人間の性について、どれだけ真摯に学んできたでしょうか。さらに、私たちは同性愛に関する牧会上のあるいはカウンセリング上の事例をどれだけ知っているでしょうか。
 そう考えますと、私たちは、カミングアウトした相手にも、知らないことは知らないと正直に認めるべきです。たとえ牧師であっても聖書の性に関する記述に対しては熟知していない事を認めるでしょう。たとえ熟知していても、その原則を個々の事例に当てはめるだけの能力がないことは素
直に告白すべきでしょう。
 そのような態度は相手の信頼を損なうでしょうか。また、相手を失望させるでしょうか。いいえ、私はそのような謙虚な態度こそが相手に誠実さを伝えると考えます。

 カミングアウトに至るまでの葛藤や苦悩を受容することなく、すぐに「診断結果」や「判断」「解釈」「分析」「指示」などを出す姿勢は好ましいものではありません。そのようなことは、カミングアウトの時は避けるのが好ましいと私は考えます。倫理的な判断、牧会上の指示などは二度以降の面談時で十分でしょう。
 聖書の記述(同性愛は罪)を振りかざして、相手を断罪し、結果的に教会に来ることができないようにするのは最も高慢な態度と言わざるを得ません。何より、相手に受容を伝え、様々な判断については保留すればいいのではないでしょうか。

(5)カミングアウトにおける対応実例集

拒絶感を覚える例(分析・解釈・断定と指示)
「それは罪です。まず、悔い改めなさい。」
「それは病気です。祈って差し上げましょう。」
「聖書によれば、滅びに至る罪です。このままでは地獄行きです。」
私は実際にこのような対応をされて傷ついたり、拒絶感を覚え牧師への信頼を失った
例を幾つか(書物やホームページ等を通じて)知っています。

好ましいと思われる例(受容、信頼)
「よく、打ち明けて下さったね。それほどまでに信頼してもらってうれしいよ」
「そうだったのですか。打ち明けるまで、どんなにか苦しかったでしょうね。」
「よくわからない世界だけど、私たちの関係は今まで通りだよ。」
「何ができるかわからないけれど、あなたのことを理解したいし、祈って行き
たいと思うよ」
「大丈夫だよ。イエス様はあなたを愛しておられ、決して見捨てないから」

 以上のような簡単な一言がどれだけカミングアウトをされた方を勇気づけ、希望を与
え、心を軽くするか分かりません。これは、実際にカミングアウトをされた方々の声か
ら私が学ばせていただいたことです。