同性愛についての資料と牧会上の指針

3.基礎知識編

1.呼称について

 まずは、同性愛者についての呼び方を考えましょう。日本では「ホモ」「オカマ」「ゲイ」「ニューハーフ」等の用語が明確な区別もなく用いられています。クリスチャンとして人権を無視した差別的表現、あるいは同性愛者本人が不快とする表現は用いるべきではないでしょう。

1)Homosexualityは1869年ハンガリーの医師ケルトベニーによって病名として命名したものです。「ホモセクシャル」と言えば、日本では男性同性愛者だけを指すように受け取られがちですが、実際には男女両方の同性愛者全般を指す言葉です。ちなみに「レズビアン」は女性同性愛者のみを指す言葉です。19世紀当時は生殖に結びつかない性はすべて病気として治療の対象でした。元来、病名としての呼称なので、「同性愛は病気である」という価値判断が含まれてしまいます。したがってこの語を用いることは、中立性を欠くので不適当だと判断する方もおられます。

2)「同性愛者」という表現は、中立かつ客観的表現と思われます。

3)「ゲイ」(英語で陽気な者)は男性同性愛者自身が自らを呼んだ前向きな呼称です。男性同性愛者自身は現在もこの表現をよく使うようです。

4)「オカマ」とは古語でお尻のことのです。日本では一般的に用いられているようですが、これは同性愛と肛門性交を結び付けた偏見を含む差別表現だと言えるでしょう。

5)「ホモ」も日本社会で当たり前に使用されている用語です。これは「ジャップ」(日本人に対する蔑称)同様、全部言うに値しないという意味での差別表現と考えられます。

6)「ニューハーフ」や「ミスターレディー」はマスコミの発案らしいです。女装をした者、あるいは性転換者などを指しているようですが、実際の同性愛者には、戸籍上の性の服装をして、その性での社会生活に違和感を覚えない人々が多数派なのです。同性愛とは、基本的には性的指向に関する問題で、服装などの社会的な性や性同一性に関するものではありません。したがってこの表現は同性愛者を指すものとしては不適当とすべきでしょう。

 やはり日本語であれば「同性愛者」という表現が適切かと思われます。実際、カトリック、プロテスタントの文献を見ても英語であれば「ホモセクシャル」日本語であれば「同性愛者」という表現がほとんどのようです。同性愛者も異性愛者も同様に神様のかたちに似せて創造された一人格として適切な呼び方を用いたいものです。

2.性に関する基本概念~性別と性的指向と性自認

 ここでは(同性愛者、性同一性障害者など)性的少数派の人々を理解する手がかりとして、「性別」「性的指向」「性自認」という概念をご紹介します。

(1)性別とは
一般に性という概念は実はかなりあいまいなものです。学術的な世界ではそれを明確化するため「セックス」「ジェンダー」「セクシャリティー」などの語が用いられます。ここでは、より簡潔化するため「セクシャリティー」は除いて説明します。

1、生物学的性(セックス)~遺伝レベル、性染色体が決定
2、生物学的性(セックス)~性線、外性器
3、人格的、心理的、社会的性(ジェンダー)

 すべての人にとって三つの性が同一とは限りません。胎内で脳も生殖器官も1とは別の性に形成される場合があります。その場合は1と2は異なります。たとえば、染色体情報は男性でも女性器を持つ方、あるいは両性の外性器を持つ方が現実にいます。そのように外性器から性別を判断できない方々は「インター・セックス・チルドレン(半陰陽)」と呼ばれます。
 また、3は先天的にも、後天的にも1と別の性に向うことがあると考えられます。3は「心の性」と表現してもよいかも知れません。心の性が必ずしも肉体の性と一致するとは限らないのです。自らの生物学的性、あるいは戸籍上の性に違和感を持ち、それとは異なる性を生きる事を希望する方がおられます。そのようなケースは「性同一性障害」と呼ばれ、日本にも一定数の性同一性障害者がいると推定されています。

 大多数の人は三つの性が同じなので、そうでない少数派の人々が存在することを考えようとはしません。それは、健常者が障害者の人権を、多数派民族が少数民族の自由を認めないのと同様です。ですから、性的少数者の問題は単に一個人の問題ではなく、政治的社会的な差別問題、人権問題としてとらえることも可能です。

2) 性的指向とは
 性的指向とは性的な意識の方向性を意味します。どの性を性愛の対象とするかということです。それは同性、異性、両性の三つに分類されます。
 この性的指向は、性科学の世界では、幼児期には固定化され、その後は自己の意志による選択や変更は極めて困難であると考えられています。そしてその性的指向が同性に向うのが同性愛者と言えます。しかし、福音の力によって性的指向の変更は可能である(あるいは可能な場合もある)というのが、大方の欧米の福音派、特に脱同性グループの主張です。また、その事を裏付けるに十分な事例も多くあります。
 私も個人的はこの見解に賛成です。ある(すべてという個人的確証はありません)同性愛は明らかに後天性のものであり、故に福音の力や精神医療によって変更が可能であるというのが現時点での私の個人的見解です。
 また、あくまで性科学の世界での定説ですが、性的指向は100パーセントどちらかの性に向うものではないと考えられています。つまり、すべての人は(同性愛的傾向を全く自覚していなくとも)同性愛的傾向をもつと言われています。色に喩えるなら、純粋な青や赤であることはなく、すべては二色の中間色である紫だということです。濃い青紫から薄い青紫、紫へ、そして薄い赤紫から濃い赤紫へというように、性的指向はグラデーション状で段階的なものなのです。
 ですから、自分は同性愛者ではないと自覚している者でも、その性的指向を正しく判断するなら、異性:同性=9:1という結果が起こり得るのです。つまり、すべての人間は潜在的に同性愛傾向を持つのです。さらに正確に言い換えるなら、すべての人間はその性的指向において両性愛的な傾向がるというのが性科学では有力な説のようです。

(3)性自認とは
 性自認とは(生物学的、あるいは戸籍上の性とは関係なく)自分で自分の性をどう認識しているかということです。そして性自認と生物学的性が異なる場合、便宜的に以下の3種類に分類して考えられます。

a.トランス・ヴェスタイト:異性装だけを願う人々
b.トランス・ジェンダー:異なる性のライフスタイルを願う人々
c.トランス・セクシャル:生物学的な性を変えたいと願う人々

 最近話題に上ることの多い性同一性障害や性転換手術の問題は、この性自認に関わるものです。性同一性障害は自らの生物学的性に違和感を覚えたり、それを受容できないことです。それは基本的に同性愛とは別の問題です。同性愛は、性自認問題でなく性的指向の問題です。マスコミに登場する同性愛者の多くは、異性のライフスタイルを選択し、同性愛のパートナーを持つ人々のようです。その方々は性的指向と性自認の両方においての少数派と理解することができます。次の例に挙げますように、それ以外のあり方がむしろ多いと考えるべきでしょう。

〈ポイント〉
性的指向と性自認の間にはほとんど関連性はないと考えられます。つまり、性自認が生物学的性と異なっていれば、その者は性同一性障害者であって、必ずしも同性愛者とは限りません。同性愛とはあくまで性的指向の問題だからです。

〈具体例〉
一人の男性がいて、その人が女装はするが、異性(女性)との性行為を好む場合、その人は同性愛者ではありません。性的指向は異性だからです。この男性は性自認が、(戸籍上の性と)異なるのです。ところが日本社会では女装をする人を「おかま」と呼びます。これは無知に由来します。
一方、自らが男性であることに、また、男性として社会生活を送ることには何ら違和感を覚えない人が、性の対象は同性、すなわち男性とします。この場合、この男性は同性愛者です。ですから一般に用いられている「オカマっぽい」という表現は全くの的外れです。同性愛者の言葉づかい、しぐさ、服装、社会的立場、ライフスタイルは多様であって、一つの類型にまとめることはできません。私たちが同性愛者に対してある一つの固定的なイメージを持っているとすれば、それは偏見です。それは私たちが同性愛者を理解しようとしない怠惰さや偏ったマスコミ報道が生み出したものと考えるべきでしょう。

3.統計学から見た同性愛

1)アメリカでのデータ
〈資料〉1990年発行のニューキンゼイレポートによれば
全米の男性の約8%は3年間の同性愛経験、一生の同性愛者は4%
同じく女性では、一時的同性愛者20%、一生は2~3%
自分が同性愛者であると思われる行動をとったことのある男性:25%

 ただ、キンゼイリポートについては、その統計学的な不備も多く指摘されています。解答者が白人のみで、また、特殊な母集団であることなどが問題視されています。キンゼイ自身が同性愛者であるため、恣意的な統計であるとの批判も受けています。
 さらに「同性愛者」という言葉の定義が不明確という指摘もなされています。極一時期に限って同性愛経験を持った場合も(後に異性愛者として異性と結婚した場合)同性愛者と定義されるのは、公正な統計とは言えないでしょう。
 キンゼイリポートのおかげでアメリカでは、「全米男性の一割が同性愛者」という情報が一人歩きしてしまった観があります。別の団体がより統計学的に公正な方法で行った調査によれば、全米における同性愛者の割合はキンゼイリポートよりもはるかに少ないことが分かっています。

2)日本でのデータ
日本でも同性愛傾向は少数者ながら一般的、
〈資料〉財団法人日本性教育教会の「青少年の性行動第4回」報告書から
中学生、高校生、大学生、それぞれ男女別データ(男/女)
「同性に性的魅力を感じたことがある」
中学:21.0/20.3、 高校:18.3/16.7 大学:10.8/11.3
「同性と性的接触をしたことがある」
中学:3.3/4.4、 高校:2.6/4.3 大学:5.0/3.5

 一生の性生活において同性を対象とする人々は、日本では1パーセントから数パーセントであると考えられています。
また、その人の置かれた文化的な状況に関係なく、人間が一定の同性愛傾向を有するのはよく知られている事実です。かなりの人々が程度の差こそあれ、自らの同性愛的傾向を自覚しているのです。特に思春期に軽い同性愛的傾向を自覚することは、一般的です。それは、過渡的な場合も多く、ほとんどの場合は人格的、性的成熟につれて、異性愛に解消すると言われています。

4.文化史から見た同性愛(西洋史編)

 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」(箴言29:18)との御言葉が示すように、神からの啓示を持たない社会は、人間側の欲望達成が最高善とされます。その結果、欲望達成至上主義社会が形成されます。性に関しても絶対者である神からの規範がなければ、人間側の欲望達成が最大限肯定されます。そのような社会の中では人類が先天的に持っているとされる同性愛的欲求も必然的に認知を得ることになります。
 文化人類学者によれば、古代社会において人類の約3分の2は、同性愛文化を持っていたと言われています。

1)旧約聖書に登場する古代社会における同性愛
 創世記19章に登場するソドムは、同性愛が認められている社会であったようです。また、カナンの文化では、偶像礼拝との関係で神殿男娼がいたことがわかります。旧約聖書の時代の異邦社会においては、同性愛は一つの性行動として社会的認知を得ていたようです。

2)古代ギリシャ・ローマにおいて
 ヨーロッパでは少なくとも前7世紀の末までには、同性愛は広く社会に受け入れられていました。特に新約聖書の舞台でもあるギリシャ・ローマ時代にはごく自然な性行為と見なされていたようです。
 「プラトニック・ラブ」という言葉があります。今日では男女間の清らかな交際を意味するようですが、元来は同性愛を意味する言葉です。実際にプラトンはその著書「饗宴」の中で同性愛を異性愛に勝るものとして位置づけています。
 ギリシャの同性愛は、成人男性が少年を愛するという形態のものでした。それは制度化されたものであり、相互の身分も年齢も離れていたので、同性愛であるとともに少年愛でした。また古代ローマの皇帝たちのほとんどは同性愛者であったことが知られています。暴君ネロはその生涯で男性と二度結婚しています。

3)中世・近世ヨーロッパにおいて
 やがて、ヨーロッパ全体がキリスト教化されるなかで、状況は一変します。性的祝福を結婚関係に限定する聖書の教えは、当然同性愛を断罪し排斥する事なりました。その一方、9世紀から12世紀にかけては比較的寛容な時期もあったようです。一般市民の中にも修道院の中にも同性愛者は存在し、法的な罰を受ける事はなかったようです。
 しかし、1179年のラテラノ会議でその後のキリスト教会の方向性を決定する決議が行われました。そこでは明確に同性愛は罪であるとの決定がなされました。それは次第に一般社会に浸透し、同性愛は法的な刑罰の対象となって行きます。16世紀前半のイギリスではピューリタニズムの台頭もあり、同性愛は死刑の対象となりました。このよう流れがごく最近まで(数十年前まで)欧米社会を支配してきました。

5.文化史から見た同性愛(日本史編)

1)平安時代に開始
 日本においてはどうでしょうか。日本ではむしろ、古代以降の文明化とともに同性愛が一般化していったようです。日本における同性愛文化は、平安時代の仏教界で開始されたというのが定説です。仏教僧たちが留学先である中国からの性風俗を輸入したものと考えられています。仏教界での同性愛は妻帯を許可されぬ代償という意味だけではなかったようです。同性愛の対象となる年少者である稚児は仏の化身とされ、同性愛は仏性と交わる宗教的な意味を持っていました。

2)武家社会への普及
 その後、同性愛は武家社会に普及します。それは「衆道」と呼ばれ、武家の一般的な風俗として盛んになりました。そこには年長者が年少者を愛し保護する一方、年少者は年長者からの愛を受けて忠義を尽くすという政治的な権力関係が支配的であったとされています。武士道の経典とも言える「葉隠れ」には男性の同性愛を至高の愛の形態とする記述もあります。

3)庶民社会への普及
 さらに江戸時代になると、同性愛は庶民にまで広がります。陰間(かげま)茶屋や女形歌舞伎を通じての同性間の売春行為、あるいは男色文学なども趣味の一つとして社会的に容認されていました。「東海道中膝栗毛」の北さんや白浪五人男の一人、弁天小僧菊之助などは「陰間上がり」(元男色売春者)という設定です。井原西鶴著「好色一代男」の主人公も男性と性的関係持つ場面があります。

4)近代化に伴う激変
 ところが明治以降、日本社会は急変し、同性愛は忌み嫌われるものとなり、極めて短期間で社会的認知を失いました。その要因としては様々なものが考えられます。しかし、最も決定的な要因は西洋文明との出会いであったと言えるでしょう。さらに具体的に言うなら、西洋医学とキリスト教的な性倫理との出会いです。
 古来、日本社会は性というものを快楽や趣味として理解し、医学や倫理の対象としてはあまり考えてきませんでした。したがって、江戸時代までの日本社会においては、人々の性行動は多様であり、自らの性行動を正常か異常か、正しいか間違っているかを判別することはありませんでした。むしろ、判別するための基準を持ち得なかったと表現した方が適切かもしれません。
 しかし明治以降、西洋医学の基準によって、従来の多様な性行動は正常と異常に分類されます。その中で同性愛は異常性愛の中に分類されることとなりました。さらに、キリスト教的な性倫理という規範によって、生殖や結婚と結びつかない同性間の性は断罪されることになったのです。このような「医学的には異常、倫理的には罪悪」という同性愛に対する評価は、急速に一般社会に浸透し、現在に至っていると考えてよいでしょう。ですから、同性愛者と聞いて反射的に生理的嫌悪感を催すような反応は、かなり文化的に作られたものだと判断できます。

 ここで断っておかなくてはならないことがあります。それは、江戸時代以前の同性愛と現在の日本における同性愛とを短絡的に同一視してはならないということです。禁欲的共同体の中での宗教的意義を持った同性愛行為や武家社会の中での政治的権力関係を背後に持つ同性愛行為は、それらを持たない現代の日本社会における同性愛とは、異なるものと考えるべきでしょう。
 何より、江戸時代以前の同性愛は、正確に言えば両性愛的行為であったことが大きな相違点と言えるでしょう。それらの同性愛者たちは異性愛者でもありえたのです。しかし、現代の日本社会における同性愛者のほとんどは、性愛の対象を選択し得ない、言い換えるなら同性しか性愛の対象とし得ない人々です。
 したがって、文化史から見た日本の同性愛は明治時代に分断さていると考えるのが適切でしょう。それ以前は言わば「文化としての同性愛」と呼ぶことができるでしょう。それに対して明治以後は「自らの性的指向に由来する同性愛」と表現できるかと思います。
 両者の短絡的な同一視が実際に同性愛者クリスチャンを苦しめているようです。特に、教会の中では同性愛傾向を持つこと自体が、すぐソドムとゴモラの忌まわしい罪と結び付けられてしまいます。

6.精神医学から見た同性愛

 従来、同性愛は欧米の精神医学界においては、病的な人格的障害や性的な歪みとして理解されてきました。しかし、アメリカでは1970年代に世界の精神科医が診断の拠り所とするDSM-Ⅲ(米国精神医学会刊行)から「同性愛」という病名が廃止されました。さらに1987年に出されたDSM-Ⅲ-Rという版からは、同性愛に関する事項は一切削除されました。そして1993年、WHOは「国際疾病分類」で「同性愛はいかなる意味でも治療の対象とはならない」と宣言するに至ったのです。その後、日本では94年に厚生省がこれを基準として採用し、翌年には日本精神神経医学会がこれを尊重する見解を発表しています。
 私は実際に同性愛者の方で治療を願って精神科医を訪ねた方を存じ上げています。その方の話しではやはり、治療対象としてくれなかったということです。自分の現在の性的指向を受け入れ、それに従って同性愛者として生きるようにとすすめられたそうです。生育歴を尋ねるなど、後天性である可能性を探ることすらなかったと言います。大方の精神科医はそのような治療方針なのかもしれません。
 一方、クリスチャンの医師やカウンセラー、あるいはノンクリスチャンの医療関係者の中の一部には同性愛を治療対象として受け入れる方々もおられることを明言しておきます。
 このように一般の精神医学の世界では、同性愛は多様な性行動の一つ、あるいは少数派の正常な性として受容されつつあるようです。しかし、これら一連の決定は純粋な医学的発見や学術的な研究成果によるものではないことも明らかです。このような権威ある機関の決定の背後には、同性愛者団体からの強力な政治的圧力や性における多様性を認めようとする世界的な流れの後押しがあるからです。特に60年代から開始されたアメリカの同性愛団体の米国精神医学会に対する抗議行動はこれらの決定に大きな影響を与えたと言われています。
 ですから、以上のような医学上の決定事項をもって、異常性愛、疾病あるいは障害として同性愛を理解することが間違いであると結論づけることはできないでしょう。むしろ、このような医学界の決定事項の中にあっても、今日、精神医学が同性愛を治療対象とすることの正当性は十分にあると思われます。

 また、同性愛を病、障害として理解することは決して同性愛者への人権侵害や差別にはなりません。むしろ病者、障害者であるなら、その人権は保護されるべきです。また、それは同性愛に対する倫理的な判断を含むのでもありません。「倒錯者」「変態」というイメージを肯定することでもありません。同性愛を疾病、障害として理解することは、それを「少数派における健全な性のあり方の一形態」として認めないという見解を意味するだけです。

7.一般的な誤解について

 同性愛者に関してはかなり事実と異なる認識があるようです。その代表的なものを箇条書きにしてみました。
1)不特定多数を対象とする性行為や乱交は限られた一部の同性愛者のものです。
それは異性愛者と同様でしょう。
2)肛門性交を行う同性愛者は日本では半数以下だそうです。同性愛者の性行為=肛門性交というのは異性愛的想像による誤解です。また、漫画やテレビ、映画などによる偏見だと言えます。
3)「迫られる」「襲われる」等の心配も偏見に基づくものです。性に関しては好みのタイプもあるし、通常、同性愛者は異性愛者を性的対象としないそうです。
 私は高校の教師であった当時、男性教師と女子生徒との性的問題や教師同士の不倫は数かぎりなく聞いてきましたが、同性愛者の教師が性的な問題を起こしたことは聞いたことがありません。
4)女装やおねえ言葉もそれぞれです。性的指向と性自認は別のものだからです。
5)男役と女役というパートナーシップや性関係は、一昔前のことです。それは異性愛者の模倣によるものです。現在では同性愛者の独自のあり方が主流だそうです。
6)結婚に関しても多種多様です。生涯独身の者もいれば、異性の同性愛者と偽装結婚を
する場合もあります。また、自らの性的指向を隠して異性と結婚し、自らも家族をも苦しめているケースもあります。
7)男性同性愛者にHIV感染者の割合が多いのは事実のようです。しかし、同性愛者全体から見るなら、極一部に過ぎません。たとえ感染者であっても通常の生活においては、感染の可能性もなく何ら問題はありません。また、現在、HIV感染はしに直結するものではないこともお知らせしておきます。

 このように同性愛者の現実の性行動やライフスタイルは実に多種多様です。同性愛者の性行動は一般にはかなり画一的に考えられているようです。一例を挙げれば、同性愛者は、仲間の集まる特定の場所でパートナーを見つけて不特定多数と肛門性交をしているというものです。クリスチャンは事実と異なる認識をしていたら、それを悔い改めるべきでしょう。
 同性愛者の現実の姿を知るなら、誤解や偏見に基づく恐れは取り除かれます。同性愛者を友人に持つことや、教会の交わりに同性愛者がいる事は直接的な害を及ぼす事でないことは明らかです。